ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS 白蓮華 泥の中でも 汚されぬ あなたも同じ 礼拝します<547>

<<   作成日時 : 2014/08/01 04:19   >>

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○少年少女のためのスッタニパータ<547>
・・・
良い事があっても
悪いことがあっても
お釈迦様は動揺しません。
心は静かです。


第3 大きな章 6.サビヤ経 38.

○中村元先生訳
547
麗しい白蓮華が
泥水に染まらないように、
あなたは善悪の両者に汚されません、
雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。
サビヤは師を礼拝します。」


○正田大観先生訳
553.(547) 
あたかも、麗しき白蓮華が、
〔汚〕水のなかにありながら、汚されることがないように、
このように、あなたは、善(功徳)についても、悪(功徳なき)についても、
〔その〕両者に汚されません。
勇者よ、〔両の〕足を差し出したまえ。
サビヤは、教師を敬拝します」〔と〕。ということで――(38)


○パーリ語原文
552.
プンダリーカン    ヤター    ワッグ
‘‘Puṇḍarīkaṃ     yathā     vaggu,
白蓮華が       ように    美しい

トーイェー     ナ    ウパリンパティ
toye        na    upalimpati;
水中で      ない  汚され 

エーワン   プンニェー    チャ    パーペー    チャ
Evaṃ      puññe       ca     pāpe       ca,
そのように  善         と     悪        と

ウバイェー    トゥワン   ナ    リンパスィ
ubhaye      tvaṃ      na    limpasi;
両方で      あなたは   ない  汚され

パーデー    ウィーラ    パサーレーヒ
Pāde       vīra       pasārehi,
両足を     勇者よ     お伸ばし下さい

サビヨー    ワンダティ    サットゥノーティ
sabhiyo     vandati      satthuno’’ti.
サビヤは    礼拝します   先生に・と


○一口メモ
この偈はブッダが美しい白蓮華が泥水に汚されないように、善と悪の両方に汚されませんと述べています。ここで問題になるのは、何故悪だけでなく、善悪の両方なのかということです。善にも汚されないと書いてあります。何故善に心が汚されるのでしょうか?

正田先生の訳には、「善(功徳)についても悪(功徳なき)についても」となっていますから、ブッダは功徳があるかないかということによって汚れない(動揺しない)という意味にとれます。

この問題について、既にダンマパダ267番とスッタニパータ520番で学びました。下記のブログ記事を参照して下さい。

善悪を ともに離れて 梵行し 熟慮して住む 彼は托鉢僧(ダンマパダ267)
http://76263383.at.webry.info/201211/article_3.html
「善も悪も離れて、心を清める修行をして」の善悪を離れるということについて、どういうことなのか考えてみようと思います。
「悪を離れ、善を実践して、心を清める修行をして」ならば分かりやすいのですが、善悪を離れてとなると分かり難くなります。
例えで考えてみましょう。ある人が道を急いで歩いていて、そこに立っていた人にぶつかりました。この人は急いでいるものですから、「何でそこに立っているのだ」と思って、立っている人に怒りを持ちました。この人はまた急いで歩いて行きました。(こういう人には不幸が訪れます。)今度は電信柱にぶつかりました。その時は、電信柱に怒りを持つことはできず、自分の不注意を呪うことしかできません。これらの怒りや呪いは、道に立っていた人や電信柱には関係なく、急いで歩いていた人の心の中に起きた現象です。
一方、ある若者が重い荷物を持って歩いている老人の荷物を持ってあげました。この若者の心には善いことをしようとする気持ちもないのです。ただ、困っている老人がいて、自分には力があるので、荷物を持ってあげたと言うだけの事でした。
上に書いたような現象は日常生活でいろいろ形を変えて現れると思います。初めの場合は心に怒りが現れたから悪だと言い、後の例では若者が老人を助けたから善だと言います。しかし、これらの場合の悪も善もただ心の中に、ある時その時だけ現れた現象で、あるとかないとか言えないのです。

静まって 善と悪とを 捨て去って 生死を超えた 彼が沙門だ<スッタニパータ520>
http://76263383.at.webry.info/201407/article_8.html
「出家修行者の内面に注目すると、心が静まっているということが重要なのです。
この観点で520偈を読んで見ると、善悪を捨てての後の内容は心が静まるために必要なことなのです。もちろん悪を行わないことは当然ですが、ものごとを良い悪いとこだわると心が静まりません。世間の塵とは欲や怒りのことでしょう。これらの煩悩から離れると心は静まるのです。
善悪を捨てることについて少し考察すれば、善と判断しても、悪と判断しても単純には決められないということがあります。台風や地震などの自然現象は、その被害者にとっては大変な悪ですが、自然現象は善とも悪とも言えません。もちろん被害を少なくして、人災の面はなくす努力は必要です。善悪を言って騒がずに、冷静に必要な対応・対策をするべきなのです。」

前回の546偈と合わせて考えると、何事にもとらわれのない獅子のようなブッダは何事にも恐れないのです。同様に何事にもとらわれのないブッダは何事にも汚されないのです。動揺しない静寂を保っているのです。善にも悪にも汚されることがない、動揺しない、静寂を保っているのです。これが遊行者サビヤさんのブッダを称賛する終わりの偈です。そしてこれがサビヤ経の最後の偈になりました。

明日、サビヤ経の最後「結び」です。


白蓮華 泥の中でも 汚されぬ あなたも同じ 礼拝します<547>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


〜〜〜〜〜〜お知らせ〜〜〜〜〜〜

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090−2311−9317に御連絡下さい。


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コメント(7件)

内 容 ニックネーム/日時
悪を離れ、善をも離れ、善悪をともに超えた境地に達した人は、人間関係にまつわる苦悩から完全に解放される。そこで、これを心解脱の完成と呼ぶ。

人々(衆生)は、悪に苦しめられているだけでなく、善(と呼ばれるもの)によっても苦しめられている。人と世の真実を見極めたとき、その本当のすがたが覚知されるのである。

***
SRKWブッダ
2014/08/01 06:18
ワンギーサ先生、今日もブログの更新をありがとうございます。
誰かにぶつかったとしても、その時に正しい選択をして(さっと謝るなど)悪いことになったなどとこだわらずにいること。
荷物を持っているお年寄りに出会ったら、その時に正しい選択をして(荷物を運んであげるなど)良いことをしたとこだわらずにいること。
これが善と悪を離れているということかなと思いました。
瞑想でもそうですが、しっかり確認して評価しないことは大切なんですね。
ありがとうございます。
ななつ
2014/08/01 12:23
偽善という言葉がありますが、
善い行為には、どうしても
いくらかの慢の心などが
混じってしまいます。
善い、悪い、などと妄想せず、
淡々となすべき事を
すればよいのですね。
あすか
2014/08/01 18:18

善い、悪い、というのは、
時代、立場、など
状況によって変わりうるもので
絶対的なものではありません。
ですから、そのように不安定な
物事で動揺することなく、
常に心穏やかでいることが
大切なのかもしれません。
あすか
2014/08/02 18:16
ワンギーサ先生
いつも新鮮なダンマをお届け下さり誠に有難うございます。

「善と悪の両者に汚されない」ということについては、様々な解釈が可能であり、いずれも興味深いところですが、次のように考えることもできると思います。

(1)
善い行いをすると楽なる結果を受け、悪い行いをすると苦なる結果を受ける、というのは業の法則です。この業の法則は、精神的現象(ナーマ)と物質的現象(ルーパ)が生成展開されている輪廻の世界で成り立つものです。
単純な例でいえば、困窮している人たちに対して見返りを求めずに惜しみなく財を分け与えるという良いことをした人は、来世以降に財宝に恵まれた境遇に生まれ(善因楽果)、重大な罪を犯した人は来世以降に地獄に再生する(悪因苦果)というようなことです。
そうだとすると、生命として輪廻を続けて行かざるを得ないのであれば、来世以降に多大なる苦しみを受けないように、できるだけ悪を避けて善行を多くして功徳をたくさん積むべきだということになります。

しかし、他に財を施してさらなる金持ちに生まれ変わったとしても、あるいは、禅定に習熟して最高に楽なる生命である梵天に生まれ変わったとしても(善因楽果)、業の法則に従って何らかの生命として再生してしまう限り、すなわち輪廻の牢獄にとどまる限りは、無常(瞬間毎に生滅の繰り返しを強制されること)・苦(不完全、不安定、不満足)という本質から逃れることはできないとされます。
そこで、ブッダは、「全ての生命は、梵天や神や人間に再生することよりも、むしろ輪廻から解脱して苦を完全に無くすことを目指すべきだ」と勧めていらっしゃるのだと思います。
そして、解脱を達成した阿羅漢は、善因楽果・悪因苦果という業の法則から解き放たれて自由になり、再生するということは決してありません。
((2)へ続く)

鹿野苑の馬鹿凡
2014/08/03 04:06
(2)
それでは、このような阿羅漢となった聖者は、悪いことをしないのは当然だとしても、善いこともしないのでしょうか?

この点、もちろん、阿羅漢は、悪を犯すことはなく、他の誰よりも善いことをするのですが、業の法則から自由になっているために、いくら善いことをしても、その果報(楽果)を受けることが無いのだ、と考えます。

「善と悪の両者に汚されない」とは、このように「業の法則から自由である」ことを意味するものと理解することができると思います。

皆様に智慧の光が輝きますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
鹿野苑の馬鹿凡
2014/08/03 04:09
先日の長老の(協会配信)配信動画で、流れていく状況を流れていると見る事が出来る、それには良いも悪いもない、と伺ったように思います話を思い出しました。どうしても良いや悪いの識別をしてそして自ら浮き沈み状態を作っているように思います。そのようなものを超えた、ただ「流れている」と見れるような域になりたいです。
こころざし
2016/07/27 19:54

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