ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS 頑迷な 自説の論者は 悟れない 己の過誤を 知れないからだ<910>

<<   作成日時 : 2015/06/10 03:45   >>

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○少年少女のためのスッタニパータ<910>
・・・
人を指導する立場に立つと
分かることがあります。
素直な人は成長し、
頑固な人は伸びません。


第4 八つの詩句の章 13.大集積経 16.

○毎田周一先生訳
910.
自分の立場を離れないで論ずる人は
自分考え出したその考えを 立派なものと思っているので その人に本当のことを悟らせるのは難しい
自分のとりついている処にだけ清らかさがあるというように
清らかさを論ずる人は そこにだけ本当のことがあると見ているからである


○中村元先生訳
910
(「われは知る」「われは見る」ということに)執著とて論ずる人は、
みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。
自分の依拠することがらのみ適正であると説き、
そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。


○正田大観先生訳
917.(910)
〔特定の見解に〕固着して説く者は、
まさに、導くに易き者ではありません。
〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕見解を偏重している者です。
それ(自説)に依存する者が、そこにおいて、『美しい(価値がある)』と説いているなら、彼は、〔自己だけの〕清浄を説く者であり、そこにおいて、そのとおり、〔彼だけの清浄を〕見たのです。(16)


○パーリ語原文
916.
ニウィッサワーディー    ナ    ヒ    スッビナーヨー
Nivissavādī          na    hi     subbināyo,
執著論者は         ない  実に   容易に導かれない

パカッピタン    ディッティ   プレッカラーノー
pakappitaṃ     diṭṭhi       purekkharāno;
思い計られた   見解を      尊重しているので

ヤン     ニッスィトー    タッタ    スバン      ワダーノー
Yaṃ     nissito        tattha    subhaṃ      vadāno,
その所   依拠する     そこに    清浄があると  説くので

スッディンワドー   タッタ     タタッダサー    ソー
suddhiṃvado      tattha     tathaddasā     so.
清浄論者は      そのように  それを見た    彼


○一口メモ
今回の偈は自分の考え方に固執している人に真理を教えることは難しいということを述べているのです。このことは自分の考え方に固執している人は真理を知ることが難しいということでもあります。

この偈にそって読んで行くと、自分の考え方に固執している人は、自分で考えことを非常に大切に思って、尊重しているのです。ですから、自分が間違っているとも思わないだろうし、たとえ間違っていてもそれを彼は変えることが出来ないのです。自分の考え方を自分自身のように考えているのです。自分自身を否定できないので、自分の考え方も否定できません。そもそも彼は自分の考え方が間違っているとは思えないのです。

自分の考え方に固執することについて、中村先生の訳では、(「われは知る」「われは見る」ということに)執著とて論ずる人としています。自分の考え方を、前からの偈のつながりの中で解釈されています。もちろん、それでもよいのですが、もう少し広く考えて、自分の考え方とすると、この偈はいろいろな場合に適応できます。


頑迷な 自説の論者は 悟れない 己の過誤を 知れないからだ<910>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


〜〜〜〜〜〜お知らせ〜〜〜〜〜〜

◎特別連絡:6月12日(金)から6月16日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090−2311−9317に御連絡下さい。


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コメント(7件)

内 容 ニックネーム/日時
おはようございます。
「自分の立場を離れないで論ずる人」・「(「われは知る」「われは見る」ということに)執著とて論ずる人」・「 〔特定の見解に〕固着して説く者」。三先生方のこの訳を読んで、怖いな、と感じました。
そこにさらに「自分の考え方を自分自身のように考えているのです。自分自身を否定できないので、自分の考え方も否定できません。そもそも彼は自分の考え方が間違っているとは思えないのです。」というワンギーサ先生の説法を拝見し、とどめをさされました。心底、腑に落ちました。
御指導ありがとうございました。
kempsford
2015/06/10 04:12
ブッダとマーガンディヤさんとのやり取り〈835〉〜〈847〉のことを思い出しました。

自分の固定概念を通して理解しようとする、、。それを破壊しないと「学び」に繋がらないのだと思いました。

2015/06/10 04:56
自分の考えに固執しないのは、大切だと思いました。判断力をもつことも必要だと思いますが、それも自分の基準に固執することなく考えるわけですから、とても難しいことだと思います。
エル
2015/06/10 06:52
おはようございます。
私事ですが以前「○○さんはお釈迦様の生まれ変わりです」と当時の友人に言われ返答に困った事があります←自分の学んでいる事としてお釈迦様は解脱され涅槃に入られたので、それはないと思いますと指摘はさせて頂きました(それ以上は控え論争を避けました)。
その方は尊敬出来る人間性の持ち主と思ってましたが見解の違いが露出したからか、その後疎遠になりました(それはそれで流れと思っています)
自分なりに確信で思っている事を大事にしながら、それが見解として固まってしまうのではなく、智慧になるように精進したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
身の丈修行者
2015/06/10 07:28
人は自分の考えに依拠しなければ理を知ることはできない。しかしながら、真理を耳にしない間はその理と称するものは真理ではない。では、どういうわけで自分の考えに依拠しつつ、それでも真理を知り得るのであるか? それは、固執しないことによる。

これは、要するに、本当に真理を耳にした時にそれがそうだと分かるかどうかと言う事である。固執する者は、真理を理解しない。固執しない人(=賢者)は、本当に真理を聞いたときにそれが真理であると(自分の考えた理を訂正して)知る。

***
SRKWブッダ
2015/06/10 08:09
おはようございます。
「自分の考え方に固執するな」とは難しいことだと思いました。
人間は私的な感情や考えで、物事の判断をしてしまうことがあります。

少しでも理性を働かせて気づきを思考・行動の前に入れることができればいいのかなと思いました。そうすることで少しは自分の考え・感情に固執することが減るのではないでしょうか。
みき
2015/06/10 10:05
私事ですが、以前ダンマサークルに初めて参加させて頂いた時、運営会議兼懇親会のような所から出席させて頂いたのですが、僕の頭の中は当時習っていた自己啓発系の先生の教え的なもので一杯で、随分とそれを元に変な発言をしてしまった記憶があります。会の方に「いったん自分の価値観・固定概念を捨てて、そして長老の教えを受けて下さい」とアドバイス頂いた記憶があります。それから2度目にお伺いさせて頂くまで数か月が過ぎましたが、その間にその意味が分かりましたように思いました。色眼鏡を捨てて、素直に学ばせて頂きたいです。
こころざし
2016/11/14 20:55

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