ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS SRKWブッダの説く「修行」について

<<   作成日時 : 2017/02/11 04:17   >>

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ワン爺の独り言(2017.2.11.)
SRKWブッダは次のように説いています。「この世には直接にも間接にも超越的にさえも、人をやすらぎに導く手続き的な修行法などは何一つ存在していない。では、そもそも修行は存在しないのであろうか?『決してそんなことはない』とすでに覚りの境地に至ったもろもろの如来は説くのである。」このような矛盾しているように思える文章の真意は何か学んでみよう。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou106.htm

(以下引用)
【修行】
世間には、これこそ人をやすらぎに導くものであると語り、さまざまに伝承され、広く狭く知られた、思惟・考研の対象としてもあれこれと論議されるところの、世人が「修行法」と称する種々さまざまな方法論が存在している。しかしながら、そのような方法論の何をどのように履修したとしても、それによって人が覚りの境地に至ることはあり得ないことである。なんとなれば、この世には直接にも間接にも超越的にさえも、人をやすらぎに導く手続き的な修行法などは何一つ存在していないからである。

では、そもそも修行は存在しないのであろうか?『決してそんなことはない』とすでに覚りの境地に至ったもろもろの如来は説くのである。

けだし、人が覚りの境地に近づき至って円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に住するのは、覚りの境地に至ることを目指す正しい熱望にもとづいてかれ自身が見い出し、為し遂げたところの<修行>ゆえのことであると知られるからである。そして、そのことは、覚りの境地に至ったかれ自身が、まさしくあれこそが自分にとっての<修行>であったと後づけで知ることになるのである。したがって、もし人が覚りの境地を目指した<修行>を何も為さないのであるならば、それではかれが覚りの境地に至ることはあり得ないこととなる。

このように、覚りの境地に至ることを目指して行なわれるべき<修行>とは、その具体的なことは、心構え正しきいとも聡明なる人が、誰に頼ることなく自分自身で見い出すものである。それゆえに、その<修行>はかれにとって疑いを残すことなく修されるところとなる。また、その<修行>がかれにとって微塵も疑い無きものであるゆえに、それはかれをして修行にまつわって起こるあらゆる疑惑から離れせしめるものとなる。その結果、<修行>は覚り以前においてもかれに安心と平安とをもたらし、しかもそれは人に何らてらう必要のないものとなるのである。かれは、決してヌミノース(=まるで熱にうなされたよう)にはならない。かれのその<修行>は、何かにけしかけられたり駆り立てられたりしたものではなく、また他の誰かをけしかけることもないものであると実感されつつ修されるからである。かれは、そのようにして<修行>を為し遂げ、ついに自ら因縁を生じて虚妄ならざる不滅のやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至るのである。

ところで、もしも人が「修行法」と称し得るような手続き的な何かによって覚りの境地に至り得るのであるならば、もろもろの如来はそのように説くであろう。しかしながら、いかなる如来もそのように説くことはない。なぜならば、そのようなものは存在していないからである。覚りは、最初から最後まで各自のことがらであり、例外はない。また、それは時代や場所によらずつねにそのようである。そのことを如実に知って、もろもろの如来は<修行>にまつわる真実の真相を真実のままに説くのである。

しかし、だからと言ってもろもろの如来は覚りの<修行>は修行者の自己責任であると主張するのではない。 もろもろの如来は、明知ある人は決して道を誤ることがないと予め知ってただ修行者達を見守るのである。こころある修行者は、見聞きしたものであろうと、自ら想起したものであろうと、何であろうと、あやしげなことに誘われることなくまさしく覚りに至る<修行>に勤しみ、自らそれを為し遂げて円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至るのは間違いない。

実のところ、覚りを目指して行われるべき修行の虚実と正否は、それを行なう修行者の心構え如何によって決まるものである。心構え正しからざれば、いかなる修行を為すとしても、それは手段を選ばぬものとなってしまうであろう。しかし、そのようであってはとても覚ることはできない。その一方で、心構え正しき人は、自ら為すところのあらゆる行為を正しい<修行>として成立させるのである。

したがって、こころある人は「修行」という言葉にとらわれてはならない。自ら見い出した真実の<修行>を為し遂げて、虚妄ならざる安穏(=ニルヴァーナ)に到達せよ。

[補足説明]
経典には次の記述が見られる。
● まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし(金剛般若経)
   〔応無所住而生其心〕
● 真実の教え(正法)をしっかりと身につけること自体が、真実の教えである(勝鬘経)
(以上引用)


※ワン爺のコメント
今回の「修行」についての文章の続きがあります。それを明日掲載します。

またもう一つ、SRKWブッダのHPに電子書籍の案内があります。その一つに「修行」という電子書籍があります。この本は無料ですから、是非御読みください。参考のために、この本の目次を以下に掲載します。
1章 修行
     修行とは何か                      
     修行の目的とは何か                   
     修行において大事なこと                 
     修行には終わりがある
     修行が足りない?                     

2章 修行の実践
     修行方法の紹介                       
     観による修行の実践                  
     公案を援用した修行の実践                 
     念仏による修行の実践                    
     経典を読む修行の実践                   
     談論による修行の実践                 
     省察による修行の実践                   
     何もしないことが修行になることがある          
     功徳を積むことがすなわち修行              

3章 修行の注意
     修行者が陥りやすい落とし穴             
     修行が修行でなくなってしまうとき            
     修行が進まないように感じるときには          
     誤った修行は地獄行きになる?             

付録
     聖求について                     
     三つの解脱                          
以上です。



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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こちらのブログでは時々「無相」という言葉が使われます。
さきほど、ふと「無相」の「相」を「六麁」と観れば良いのではないかと思いました。
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【六麁】
1.智相
われわれは何であれ五官が捉えたものに、文字通り主観を交えて、愛不愛、好悪、美醜、損得などを一瞬のうちに識別する段階。われわれが実際の行為に移る前にこのような判断、あるいは計算がまず働いているので、「六麁」の最初に智相がきている。
2.相続相
好悪、損得などを直感的に判断した後、好ましいものならば楽と結びつき、そうでなければ苦と結びつく段階。好きなものには取り込もうとし、嫌いなものはできるだけ遠ざけようとする。
3.執取相
相続相で生じた苦楽にどこまでも執着していく段階。
身・口・意の三業に当てはめるなら、これまでの三相は意業に当たる。
4.計名字相(けみょうじそう)
愛不愛から苦楽を読み取り、それに執着するあまり、「名字」、すなわち言葉や概念を連ねて、自己や組織エゴをむき出しにする段階。
身・口・意の三業に当てはめるなら、口業に当たる。
5.起業相(きごつそう)
このように適当に言葉で理論武装しておいて、いよいよそれを実際行動に移す段階。
身・口・意の三業に当てはめるなら、身業に当たる。智相に始まった身・口・意の三業は、ここにおいて最も具体的な行為となり、われわれは目的達成に向けて多大のエネルギーを注ぎ込む。
6.業繁苦相(ごつけくそう)
自分の欲するところに随って起こした身・口・意の三業によって、かえって因果の法則に縛られ、自由をなくしていく段階。
引用先 http://totogax.com/archives/52016444.html
*********************
ご意見有りましたらお聞かせください。
クリームコロッケ
2017/02/11 08:28
みごとに表現された言葉をこれこそ「無相」だと納得できえるかでしょう。

もしそのことで、特殊な感動があったなら、因縁があったということですね。

「相」について学ぶことも遍歴修行となりえると思います。
Satya
2017/02/11 20:29

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