ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS 仏道修行において、「公案」に取り組むことの意味

<<   作成日時 : 2017/03/10 04:16   >>

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ワン爺の独り言(2017.3.10.)
仏道修行において、「公案」に取り組むことの意味について学んでみましょう。いままで「公案」についての理法を引用しませんでしたが、SRKWブッダの理法を学ぶためには、「公案」について知っておいた方がよいと思います。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou008.htm

(以下引用)
【公案】
<観(止観)>を具体的にどのように行えばよいのかが分からない人は、公案に取り組むとよい。以下に、観と等価な公案を記す。

ただし、この公案を解きさえすれば周到に覚りの境地に至るのであるとは断定的には言えない。 なんとなれば、公案を援用して覚りの境地に至る場合、公案を解いた後でそれが平等観と等価であることを領解できるかどうかによってそれが覚りに役立ったかどうかの分かれ目となるからである。そして、その領解が為され解脱が実際に起きたとき、そのときはじめて一大事因縁が現れたのであると認められるのである。

[平等観と等価な公案]
 『どうしてもいけなければどうするか』:久松真一氏の基本的公案といわれる

[補足説明]
久松真一氏による注釈:
どういう在り方でも、われわれの現実の在り方は、特定の在り方であり、何かである。何かである限り、何かに限定され繋縛された自己である。何ものにも繋縛されない自己、それをまずわれわれは自覚しなければならない。
「立ってもいけなければ、坐ってもいけない。感じてもいけなければ、考えてもいけない。死んでもいけなければ、生きてもいけないとしたら、その時どうするか」
ここに窮して変じ、変じて通ずる最後的な一関があるのである。禅には、古来千七百どころか無数の古則公案があるが、それらは結局この一関に帰するであろう。

『絶対危機と復活』(著作集第2巻、法蔵館)より(p.191) 
注記) 上記は、FAS協会のホームページから引用。
(以上引用)

注:<観(止観)>については次のアドレスのブログ記事をお読みください。
http://76263383.at.webry.info/201701/article_9.html


※ワン爺のコメント
SRKWブッダの理法の学びにおいては、観(止観)を必修科目とすれば、公案は選択科目のように思います。
その理由は、「感興句」の「公案の功罪」に次のように述べられています。
(以下引用)
【公案の功罪】
「いわゆる公案を解くことによって、覚りの境地に近づく人があるのは確かなことである。 なんとなれば、公案に取り組むことは観(=止観)の一方法であると認められるからである。 実際、世にはよくしつらえられた見事な公案が確かに存在している。
しかしながら、人は公案を解くことによって覚りの境地に至るとは断定的には言えないことである。 けだし、人が覚りの境地に至ることは、一切の手続き的なことがらを離れた、不可思議なる因縁によっているのであると知られるからである。 そしてまた、世に広く狭く知られたさまざまな公案の中には観の役には立たないもの(つまり公案とは言えないもの)も多く含まれており、道の歩みの頼りにはならない。
それゆえに、聡明な人は、公案によって覚りの境地に至るなどと考えてはならない。たとえ取り組んだその公案が、観に役立つ、公案と呼ぶに相応しいものであったとしても、人が公案を解くということにこだわってあり得べき観(=止観)を為さないのであるならば、それらはすべからく人を迷わせる悪魔の説と化してしまう。
不滅の安穏(=ニルヴァーナ)を求める人は、知識によらず明知によって道を見極め、学問によらず学識によって真実を知り明らめよ。修行者は、人としてのあり得べき観を為し、自分ならざる何ものにも頼ることなく、他ならぬ自らによって自分自身を円かなやすらぎへと至らしめよ。 たとえ、公案を縁として覚りの境地に至った人がいることを耳にしたとしても、だからといって公案が修行に役立つ特別なものであると見なしてはならない。 公案へのこだわりを離れることそれ自体が、最後の一関たる究極の公案の一つの真意に他ならないからである。」
(以上引用)


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
久松真一氏の「絶対危機と復活(覚の哲学)」に次のように表現されています。

「目覚めない自己から目覚めておらない自己の方への肯定的積極的連続があったのであるが、今度はそれと逆に目覚めた自己から目覚めておらない自己の方への肯定的積極的連続が成り立ってくるわけである。それが自己の復活、自己のよみがえりということになるのであり、絶対肯定とは、ここではじめていわれうるのである。」(P293)

上記の内容が、(本)覚の阿頼耶識への《連続》した働きで、業識が破壊されたことであるならば、平等観が了解され、一大事因縁が現れたことになりますね。
Satya
2017/03/10 20:41
縁あってひさびさにこのブログに参りました。「公案」について一言。私は、今年になってからSRKWブッダ『観』の公案に取り組み、考えをメールしました。結果、2、3回送ってすべてゼロ点でした。「採点基準が納得できない」と思いました。ただ、今回の記事で、「公案は選択科目」であり、必修科目ではないとあります。たしかに、公案では赤点でしたが、私が数年間師事したワンギーサ長老がそこまで仰る方ならば、何か私にとって学ぶべき点もあるかもしれませんね。
三日坊主
2017/03/26 22:21

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