ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS 「疑惑」を去って、疑惑無き無上のやすらぎへと到達せよ。

<<   作成日時 : 2017/05/17 03:41   >>

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ワン爺の独り言(2017.5.17.)
今回は「疑惑者」と「疑念」についてのSRKWブッダの理法を引用します。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou115.htm
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou115_sub.htm


(以下引用)

【疑惑者】

世間の疑惑者のありさまは、次のとおりである。

○ある人が、いかに信仰篤く、誓戒を多くたもっているとしても、もしもかれが徳行をおろそかにして、疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれが理法にかなった(正しい)信仰のありようを確立することは無く、それゆえにかれが真理に達することはあり得ない。

○ある人が、いかに素質に恵まれ、才能豊かであるとしても、もしもかれが心構え正しからず、頑迷であって、聞く耳をもたず、疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれが人生の究極(=ニルヴァーナ)に達することはあり得ない。

○ある人が、いかに知ることを欲し、多くの知識を得て、見識豊かであり、また種々の(世に知られた)行法を実践して、(かれにとっては)望ましい結果をさまざまに得たとしても、もしもかれが学識に乏しく、闇雲であって、疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれが(真の)学識を身につけて不動の境地(=ニルヴァーナ)に達することはあり得ない。

○ある人が、外的にも内的にも、いかに努力しているとしても、もしもかれが明知を欠き、段階の説に固執し、成果の積み重ねを喜び、疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれの努力がかれが(こころから)望むとおりに報われることはあり得ない。

○ある人が、いかに安穏の境地(ニルヴァーナ)を希求し、不断の熱意があるとしても、もしもかれが(根本の)疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれが安穏の境地(ニルヴァーナ)に至ることはあり得ない。

○ある人が、いかに従順であって、他の人の言葉を軽んじることなく聞く耳をもち、善いことであると知ったことを確かな善意を以てつねに行為していて、自ら疑惑無きであり、疑惑無きことを自他共に認めているとしても、もしもかれが自らに依拠することを得ず、実際には疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれのいかなる行為の果報としても覚りの因縁を生じることはあり得ない。

ところで、たとえ人が十のことを心から信じているとしても、たった一つの疑惑が残っているとするならば、かれは疑惑者に過ぎない。

また、ある人が百のことを心から信じているとしても、たった一つの疑惑を拭い去ることができないでいるのであるならば、やはりかれは疑惑者に過ぎない。

さらにある人が、千・万のことを心から信じているとしても、たった一つの疑念がふと心によぎるのであるならば、かれもまた疑惑者に過ぎない。

そして、たとえ人が無限ともおぼしき数知れないことを心から信じているとしても、『疑惑など何一つ無い!』と自らに言い聞かせなければならないのであるならば、かれもまた疑惑者に過ぎず、かれ自身も結局はそれを認めざるを得ないであろう。

しかしながら、ここに人があって、それ以前のことはいざ知らず、かれが自らの疑惑を超えたならば、次のことを知ることになる。

○ 人は疑惑を超えたとき、一切の疑惑を離れたのだと知るのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、揺るぎなき信を確立したことを知るのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、人生の究極に達したことを知るのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、揺るがないこころ(不動心)の真実のありようを知るのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、努力の終焉を確かに知って、段階の説の虚実を知るのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、解脱して一切の苦悩の終滅を為し遂げ、円かなやすらぎに住している自分自身を発見するのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、三種の明知を得て、不可思議なる自らの覚りの因縁を知るのである。

こころある人は、疑惑を去って、疑惑無き無上のやすらぎへと到達せよ。


【疑念】

できることを、できないと断言する人。かれには疑惑がある。

できることを、できる筈だと言う人。かれには、なお疑念と不信とが残っている。

できることを、できることであるとこころに知って、公言することなく、そのことについてのこだわりそのものをすでに払拭している人。かれには、疑惑も疑念も不信もなく、明知があるのであると知られる。かれは、それゆえに<明知の人>と称される。

ところで、疑惑の人も、疑念ある人も、不信の人も、あり得べきその真実のすがたを体現したならば、かかる妄執を断ち切ったのであり、明知の人と何ら変わりはない。かれは、ついに安らぎに住して、一切と争うことがなくなるであろう。それこそが、できることなのである。

こころある人は、信に篤く、疑惑を超え疑念を離れて、虚妄ならざる安らぎ(=ニルヴァーナ)を我が身に体現せよ。

(以上引用)


※ワン爺のコメント
以前、「心構え」という理法を引用しました。疑惑や疑念はこれに反することだと思います。参考のために再引用します。
(以下引用)
【心構え】
何を為すにせよ、人が心を落ちつけて精進するならば、それはついには「精(エキス)」となってその人に望ましい果報をもたらす。 しかしながら、何を為すにせよ、心を落ちつけることなく闇雲に突き進むならば、それは汚濁のごとくその人にまとわりつき、望ましからざる報いを為す。 それは、ただ煩いと苦悩とをもたらすものとなる。 それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、つねに心を落ちつけているべきである。
ところで、世間においても、心構え正しく、よく気をつけている人は、雑多なことがらの中から有益なものだけを選び出して修得するのである。 かれは、益のないことがらについてはそれらを正しく排し、顧みることなく、当初の目的を決して見失わない。 かれは、弛むことなく自分の道を歩み行きて、実に得るべきものを得、身につけるべきことをまさしく身につけるに至るのである。
それと同じく、覚りの境地に至ることにおいても、心構え正しく、よく気をつけて、徳行に篤く精励し、人と世の真実を知ろうと熱望する人が、世間において種々さまざまに遭遇する出来事の中から理法に適う教えだけを見事に選び出し、修得するに至るのである。 かれは、理法に適わない諸の説は(こころに)排し、未だ知らずにいてしかし至るべきその究極の境地を(こころに)見失うことがない。 かれは、多くの福徳と功徳とを積み、機縁を生じて、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至るのである。 それは、かれが望んだ以上の無上なる境地である。
このことわりゆえに、心構え正しきことはつねに称讃される。 心構え正しき人は、世においてあびせくる諸説に心を汚されることがない。 心構え正しき人は、世間のただ中にあっても心清き人々に囲まれ、覚り以前においてさえ世を楽しみとともに遍歴することになるであろう。 かれは、修行を楽しみつつ、ついにまごうことなき覚りの境地へと至るのである。 それは、ひとえに、かれの正しい心構えによってもたらされる果報なのである。
(以上引用)


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