ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS ただ自らに依拠して

<<   作成日時 : 2017/07/30 10:02   >>

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ワン爺の独り言(2017年7月30日)
「師に頼り、経典に頼り、修行に頼って、上手に道を歩もうとするならば、それでは偏見を超えることはとてもできない。」とSRKWブッダは言われます。ではどうすればいいのですか?と聞きたくなりますね。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou176.htm



(以下引用)


【ただ自らに依拠して】



有形のものであれ、無形のものであれ、何かに頼って願いを叶えようとする者は、ことある毎に楽になったと感じ、また(理想と見なしたものに)近づいたと感じ、道の歩みを助けられたと感じる。かれ(彼女)は、時に感じて自分の気持ちを吐露するが、それは単なる気休めに過ぎず、苦の根本を断ち切るものとはならない。かれ(彼女)には、楽と苦がくり返し訪れ、それらに従いかれ(彼女)の気持ちも振り子のように揺れ動く。



有形のものであれ、無形のものであれ、いかなるものにも頼ることなく、ただ真実を知ろうと熱望して、以て願いを超えた願い叶えようとする人が、ことある毎に人の世の苦を知り、また究極に近づく確かな道を見いだし、正しい道の歩みを堅固ならしめて、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達する。かれ(彼女)は、ことに臨んで自分の過ち(=本質的な勘違い)を知り、懺悔して清らかとなり、ついに苦の根本を断ち切るに至る。そこに至ったとき、かれ(彼女)は、やすらぎに住している自分自身を発見して解脱の真実をさとり、それらに従いかれ(彼女)は動じないこころを得たことを知るのである。



偏見を超えることは容易ではない。しかしながら、偏見を超えた人が道を見いだしてやすらぎへと近づく。自らの無知を知ることは難しい。しかしながら、自分が無知であることを知って明知の輝きを増し、学識ゆたかな人々に親しむ人が、ついに無学の人(=この世でそれ以上何も学ぶ必要の無い人)となる。



師に頼り、経典に頼り、修行に頼って、上手に道を歩もうとするならば、それでは偏見を超えることはとてもできない。心構え正しく、自らに依拠して道を見いだし、歩み行く人が、師に頼ることなく、経典に頼らず、「気をつけること」を修行と為して、超え難き偏見を超えるのである。



こころある人は、世の一切の段階の説に心を寄せることなく、頓悟(=目の当たり即時に現れる法のはたらき)によってこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至れかし。





[補足説明]



関連する理法 →  理法【041】 自らにのみ依拠して


*ワン爺のコメント
このテーマについては、すでに2017年2月21日のこのブログで引用しました。
http://76263383.at.webry.info/201702/article_21.html

それが「補足説明」の「関連する理法 →  理法【041】 自らにのみ依拠して」です。その内容は難しいですが、重要なので再度引用します。熟読してみてください。



(以上引用)

【自らにのみ依拠して】



一切世間においていかなる喧騒と安楽のすがたを眼のあたりにしようとも、また種々さまざまに世間に飛び交う欠点のある、あるいは欠点の無い言説を耳にしようとも、覚りの境地を目指す人はすべからく、自分ならざる何ものにも依拠することなく、ただ自らにのみ依拠して、自ら見いだした正しい道を歩まなければならない。



しかしながら、それは決して容易なことではない。なぜならば、人々(衆生)は名称と形態(nama-rupa)を心に有し、それが自分のこころそのものであると(否応なくも)誤解し、その作用(=感受作用・表象作用・識別作用)につねに翻弄されている存在であるからである。

人々は、ものを欲しがり、ものに執著を起こして、それゆえに自らにのみ依拠して(正しく)行為することが根源的に困難になっているのである。



ところで、人が覚りの境地に至るということは、かれが根本的無知(=<無明>と名づく)ゆえに誤って後生大事に抱え込んでいるこの名称と形態(nama-rupa)と名づく心それ自身が、自ら抱く名称と形態(nama-rupa)への執著を離れて、自ら抱く名称と形態(nama-rupa)であるところの心それ自身を滅尽することに他ならない。

つまり、覚りの真実とは「それ自身」によって「それ自身」を滅する道なのである。したがって、仏道とは次のようなものであると言えるのである。



●自らにのみ依拠し、自ら(正しく)気をつけて行い、自ら見いだし、自ら知って、自ら決心し、自ら至るのが、仏道に他ならない。

ところで、ここで留意すべきことがある。



 『人は、自分以外の何ものにも依拠することなくただ自らにのみ依拠して行為すべきである。しかし、それは自分勝手なものであってはならない。またそれは、自分の心を(予め)滅して得た何かであってもいけない。なんとなれば、(理法に適う)正しい拠り所は、それらの両極端とは別のところにあると知られるからである。』



仏道は、決して遠いところにあるのではない。それは各自の極近くにあって、しかしそれゆえに知り難く、それゆえに得難く、またそれゆえに歩み難い道である。明知の人は、ことわりをこころに知って、自らにのみ依拠することの真実を自らによって識り分けて、すみやかに覚りの境地へと到達せよ。


(以上引用)




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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
10日間のヴィパッサナー瞑想に参加したのが33年前、真如を覚知したのは25年前です。その頃(25年前頃)仏教の学びで主としていたのは、海外の禅僧の教えと日本仏教の念仏でした。もちろんそれらの学びも役立ってはいますが、真如覚知の直接の要因は仏教に関してなんの知識もないごく身近な方とのご縁でした。

この真如を覚知したとき、「100年間瞑想したとしてもこの甘露の門は開けないだろう、この門は、信仰と仏教知識のまったくないごく身近な方とのご縁によっても開くのだ」と知りました。

【自らにのみ依拠して】の「仏道は、決して遠いところにあるのではない。それは各自の極近くにあって、しかしそれゆえに知り難く、それゆえに得難く、またそれゆえに歩み難い道である。明知の人は、ことわりをこころに知って、自らにのみ依拠することの真実を自らによって識り分けて、すみやかに覚りの境地へと到達せよ。」に納得します。


<追記>

智慧が生じる因縁のあり方にも、「自らにのみ依拠して」というところは共通しています。
Satya
2017/07/30 20:45

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