ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS 我が身の行く末を顧慮して

<<   作成日時 : 2017/08/07 10:37   >>

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ワン爺の独り言(2017年8月7日)
この理法はまさしく「我が身の行く末を顧慮すること」について述べています。まず、快・不快、次に善悪、さらに世の一切の軛に対して、我が身の行く末を顧慮して判断すべきこと。そして、「我が身の行く末を顧慮すること」とはどう言うことか? 最後は「我が身の行く末を顧慮すること」の利益(りやく)です。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou183.htm


(以下引用)


【我が身の行く末を顧慮して】



たとえば、快の対象物を目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその快の対象物を享受してもよいと思えるならば、その快の対象物を享受することは理法に反しない。不快な対象物を目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその不快な対象物を排してもよいと思えるならば、その不快な対象物を排することは理法に反しない。さらに、快の対象物を目の前にしても、不快な対象物を目の前にしても、我が身の行く末を顧慮し、あるいは顧慮せずとも、それでもその快・不快の対象物にこだわることがないならば、それはまさしく理法に適ったことである。



たとえば、善なることがらを目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその善なることがらを享受してもよいと思えるならば、その善なることがらを享受することは理法に反しない。悪を目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその悪を排してもよいと思えるならば、その悪を排することは理法に反しない。さらに、善なることがらを目の前にしても、悪を目の前にしても、我が身の行く末を顧慮し、あるいは顧慮せずとも、それでもそれぞれの善悪にこだわることがないならば、それはまさしく理法に適ったことである。



世の一切の軛の一方を目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその世の一切の軛の一方を享受してもよいと思えるならば、その世の一切の軛の一方を享受することは理法に反しない。世の一切の軛の他方を目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその世の一切の軛の他方を排してもよいと思えるならば、その世の一切の軛の他方を排することは理法に反しない。さらに、世の一切の軛の一方を目の前にしても、世の一切の軛の他方を目の前にしても、我が身の行く末を顧慮し、あるいは顧慮せずとも、それでもその世の一切の軛の両端にこだわることがないならば、それはまさしく理法に適ったことである。



ところで、我が身の行く末を顧慮するとは、次のことを指す。



・もし私が明日に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろうと考える。

・もし私が明後日に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろうと重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。

・もし私が一週間後に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろうと重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。

・もし私が一ヶ月後に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろうと重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。

・もし私が1年後に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろうと重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。

・もし私が10年後に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろうと重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。

・もし私が数十年後に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろうと重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。

・もし私がいつ死ぬとしても(つまり明日死ぬとしても数十年後に死ぬとしても)、それでも私は今はこの行為を断乎として為すであろうと考え、今なすべき行為の最善を推し量る。



このように考え顧慮する人は、快・不快を制するに至る。そして、このように考え顧慮することの究極を見て快・不快の対象物に対するこだわりを超えた人は、ついに快・不快を離貪するのである。



また、このように考え顧慮する人は、善悪を制するに至る。そして、このように考え顧慮することの究極を見て善悪についてのこだわりを超えた人は、ついに善悪から離貪するのである。



そしてまた、このように考え顧慮する人は、世の一切の軛を制するに至る。そうして、このように考え顧慮することの究極を見て世の一切の軛についてのこだわりを超えた人は、ついに世の一切の軛から離貪するのである。


(以上引用)



*ワン爺のコメント
以前(2017年1月20日)に「四つの徳目と四つの性格タイプ」と言うブログ記事を掲載しました。そのアドレスは http://76263383.at.webry.info/201701/article_20.html です。
そこでは性格タイプを「思考型」「感情型」「感覚型」「直観型」と分けました。今回の理法の「我が身の行く末を顧慮して」と言うことを行わないと、それぞれの性格タイプの人の欠点がそのまま現れて、四つの徳目が行われなくなります。しかし、「我が身の行く末を顧慮して」と言うことが行われると、四つの徳目が実践されることになると思います。


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
対象を享受するか排するか、その2択の場合は可能なかぎり普遍的な選択をしろ、と。分別をせずに、こだわりを捨てられるならなお良し、と。でも、それが難しい。選ばないのは卑怯ではないのかと、ただ悟り澄ました風情で逃げてるだけではないのかと、自分を責める内なる声が聞こえる。
白ギツネ
2017/08/07 11:15
身近に、「明日死んでも後悔することのない行為を為してきた」と自ら言える人がいれば、そのような人の行為を見て、自らの欠点を認識し、そのような人を尊敬する心(徳行)を生じえる。

自らも、そうありたいと我が身の行く末を顧慮し、今なすべき最良の行為を為そうとすることは理法に適ったことでしょう。
Satya
2017/08/08 09:22

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