托鉢僧と言われる者は梵行をなし慎重に

ダンマパダ 266、267

托鉢するだけで
托鉢僧にはなれない
不浄な行為をする限り
彼は托鉢僧にはなれない

善いことも悪いことも望まず
梵行を行ない
慎重に世間を歩む
彼は托鉢僧と呼ばれる


○この詩から学ぶこと

 泥棒をすれば、すぐその場で泥棒になれる。これは確かだ。この理論を使い、一分座禅すれば一分の仏だと言う禅師がおられた。私も昔はなるほどと感心したものだが、この場合は違う。一分間座禅をしても妄想ばかりしていては仏ではありえない。( この禅師はなかなか座禅をしない人々に、座禅を勧める方便として語られたのかも知れないので、私も批判という態度ではない。)

 日本人は型、形式を大切にする傾向にある。形を整えれば心、内容は後から付いて来ると思っているようだが、心、内容はどうでよくなっている。とにかく、形だけ整えようと汲々としているように思う。実はこのことは日本人だけではなかったようだ。昔のインドでもそのようなことあった。坊主頭にずれば沙門になれると思い、托鉢すれば托鉢僧なったと思う者たちがいたのだ。

 托鉢僧とは、善いことをして死後天界に行きたいという望みを持たず、もちろん悪いことしたいともも思わず、性的な関係を持たず、これは肉体的な快楽を望まないということであるが、このようにすべての煩悩を捨てて、慈悲喜捨の心を育て、自己観察、自己管理を行ない慎重に生活する僧侶である。托鉢は生きたいという渇愛のためにするのではない。死ぬ前に悟りを得るために、修行のために托鉢をするのである。

 心を整えれば、形は付いて来るということは真実ではあるが、心は形を真似しただけではついてこない。しかりと托鉢僧の心を学ばなければならない。座禅中は妄想しないような方法を学び、妄想しない意志をもたなければ、仏にはなれないのである。


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~ 

この記事へのコメント

ホーシノヒトリゴト
2008年08月21日 10:21
ワンギーサさん、本日もありがとうございます。托鉢僧としての梵行のあり方がわかりました。しかし現代はお釈迦様の時代とは大きく環境や価値観などが変わっています。そこで、托鉢という行為をどのような概念(修行)として理解し日常の行為に生かせばよいのでしょうか。教えていただければ幸いです。
ワンギーサ
2008年08月21日 20:57
托鉢は今でも仏教にとって大切な行為です。ミャンマーやタイでは日常的に行われています。昔の日本では行われていました。托鉢僧にお布施した人は、その行為だけで心が洗われ、大きな功徳を積むことになります。ですから、現代の日本でも実践する必要があります。日本の比丘もそれを実践できる工夫をする必要があります。ただ現在行われている精舎での食事のお布施は托鉢に準じた行為であります。
身の丈修行者
2015年02月02日 16:55
「心が伴っているのか」というのは大事と思います。

格好が出来れいれば心が伴う・・との話を(自己啓発系で)伺った事がありますが、心が大事と分かっていないと本筋と違う流れになりかねないように思います。

内容が違ってしまうかもしれませんが「○時間冥想出来るから・・と人に話したり評価されるように実行する」のではなく、念を入れたサティを実践出来るようなそんな姿勢が大事と教えて頂きましたように思います。

身の丈で実践して参りたいです。

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