修行をしても煩悩あれば安心できない比丘たちよ
ダンマパダ 271,272
戒と律を守るだけで
また多くの真理を学ぶだけで
あるいは禅定に達しただけで
あるいは人と離れて住んでも
凡夫の知らぬ
出離の安楽に触れても
比丘達よ、煩悩の滅尽に未踏の者は
確信に到達していない。
○この詩から学ぶこと
以前、私はこの詩を読んで、戒律を守っても、経典を学んでも、冥想に励んでも、しかも禅定を経験しても、悟りの確信は得られないのだ、では何が必要なのかと思ったことがあった。しかし、それは読み方が違う。
これらのことはすべて、修行の完成の為に有効な手段なのだ。しかし、問題はこれらの修行を通じて、どれだけ、煩悩をなくすことができたかである。戒律を守ったり、経典を勉強したり、冥想したりしても、自分は修行が進んだなどと慢心したりすれば、それは煩悩をなくすどころか、煩悩を増やしていることになるのだ。冥想をして禅定に達しても、その時は煩悩は休止状態にあるだけで、煩悩がなくなった訳ではない。禅定がなくなれば、また煩悩は活動し始めるのだ。大切なことは煩悩をなくすことである。
7月24日のダンマパダ218の詩の解説で述べたことであるが、修行が進み聖者と言われる悟った人にも四段階ある。その最初の段階の預流果聖者は有身見と疑と戒禁取という煩悩がなくなるが、まだ7つの煩悩が残っている。一来聖者になっても残りの7つの煩悩は薄まるけれども残っている。不還果聖者になると、さらに欲と怒りの煩悩は完全になくなるが、色貪、無色貪、慢心、浮つき、無明の5つの煩悩は残っている。最終段階の阿羅漢聖者になって、初めて残りの5つの煩悩もなくなり、すべての煩悩がなくなるのである。
そのため、釈尊は阿羅漢聖者になり完全に煩悩をなくすまでは、慢心は最後まで残る煩悩であるが、慢心することなく煩悩の滅尽するまで、安心しないで修行に励むように、聖者達にも励ましているのだ。我々にしてみれば、わずかの成果で喜んでいるようでは何ともいえない。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~
戒と律を守るだけで
また多くの真理を学ぶだけで
あるいは禅定に達しただけで
あるいは人と離れて住んでも
凡夫の知らぬ
出離の安楽に触れても
比丘達よ、煩悩の滅尽に未踏の者は
確信に到達していない。
○この詩から学ぶこと
以前、私はこの詩を読んで、戒律を守っても、経典を学んでも、冥想に励んでも、しかも禅定を経験しても、悟りの確信は得られないのだ、では何が必要なのかと思ったことがあった。しかし、それは読み方が違う。
これらのことはすべて、修行の完成の為に有効な手段なのだ。しかし、問題はこれらの修行を通じて、どれだけ、煩悩をなくすことができたかである。戒律を守ったり、経典を勉強したり、冥想したりしても、自分は修行が進んだなどと慢心したりすれば、それは煩悩をなくすどころか、煩悩を増やしていることになるのだ。冥想をして禅定に達しても、その時は煩悩は休止状態にあるだけで、煩悩がなくなった訳ではない。禅定がなくなれば、また煩悩は活動し始めるのだ。大切なことは煩悩をなくすことである。
7月24日のダンマパダ218の詩の解説で述べたことであるが、修行が進み聖者と言われる悟った人にも四段階ある。その最初の段階の預流果聖者は有身見と疑と戒禁取という煩悩がなくなるが、まだ7つの煩悩が残っている。一来聖者になっても残りの7つの煩悩は薄まるけれども残っている。不還果聖者になると、さらに欲と怒りの煩悩は完全になくなるが、色貪、無色貪、慢心、浮つき、無明の5つの煩悩は残っている。最終段階の阿羅漢聖者になって、初めて残りの5つの煩悩もなくなり、すべての煩悩がなくなるのである。
そのため、釈尊は阿羅漢聖者になり完全に煩悩をなくすまでは、慢心は最後まで残る煩悩であるが、慢心することなく煩悩の滅尽するまで、安心しないで修行に励むように、聖者達にも励ましているのだ。我々にしてみれば、わずかの成果で喜んでいるようでは何ともいえない。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~
この記事へのコメント
やろうと思うと色々と出来る事がある中で、それを実行しさえすれば修業が進んでいるように感じて安心するような錯覚を覚える時があります。
「煩悩を無くす」を身の丈の修行の中でも意識して参りたいです。
https://noritsu.seesaa.net/article/200808article_24.html