バラモンは生まれではなく生き方だ欲も怒りもない生き方だ

ダンマパダ 396

私はバラモンの子宮あるいは母から
生まれただけでバラモンとは呼ばない
もし何かに執着する者であるならば
彼は「友よと呼ぶ者」であるだけの者だ
心に何もなく身体に執着のない人
彼を私はバラモンと呼ぶ



○この詩から学ぶこと

 今回はこの詩ができた因縁物語から始めます。ある時、サーヴァーティ町から来たバラモンが、釈尊が自分の弟子たちをバラモンと呼んでいることを知り、自分はバラモンの両親から生まれたので、バラモンと呼ばれるべきだと考えました。当時の名ばかりのバラモンたちは威張っていて、釈尊に対して尊敬の態度がなく、不遜にも釈尊に対して「友よ」と呼びかけていました。そのバラモンは釈尊に「自分もバラモンと呼ばれるべきだ」と主張しました。

 しかし、釈尊は上の詩のように、「バラモンの両親から生まれても私はバラモンとは呼ばない。」「もし何かに執着する者であるならば彼は『友よと呼ぶ者』であるだけの者だ。心に何もなく身体に執着のない人、彼を私はバラモンと呼ぶ。」と答えました。

 この詩でも、釈尊は生まれによって、バラモンになるのではない。心に何もなく身体に執着のない人がバラモンであるのだと宣言しました。心に何もなくとは、心に欲や怒りや無知などの煩悩がないということです。そして身体への執着がないとは、五欲すなわち見る欲、聞く欲、香りの欲、味わう欲、触れる欲への執着がない人の意味です。

 この詩の意味に近い詩が、ダンマパダ221番があります。7月26日のブログに書きました。御参照下さい。http://76263383.at.webry.info/200807/article_27.html


○バラモンは生まれではなく生き方だ欲も怒りもない生き方だ


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~

この記事へのコメント

2008年12月04日 05:57
ワンギーサさん、おはようございます。身体への執着はごく普通に生活してる分にはあまり明確に感じないかもしれません。私は今年病気になり、「このまま悪化すれば、腹膜炎を起こして生死をさまよう」と担当医に告げられた時、かなり明確に自分の身体に対する執着を感じました。と同時に「もって冥想しておけば良かった」という思いが心の奥底からわいてきましたのです。この身体はやがて死によって確実に滅びますが、冥想こそが心の安らぎをもたらすものだ、と身にしみて思いました。有難うございました。
ツヨシ
2008年12月04日 07:57
 ワンギーサさん、新さん、おはようございます。
「あなたのお父さんは、すばらしい人です。」と、私の上司は言います。
 だからといって、私自身がすばらしいわけでは、ありませんね。
 私が執着を捨てることで、私がすばらしい人になっていくのでしょう。
 
ワンギーサ
2008年12月04日 08:14
新さん、おはようございます。今日もコメントありがとうございます。「思考について」昨日のブログのコメント欄に書いて置きました。お読み下さい。
ワンギーサ
2008年12月04日 08:20
ツヨシさん、おはようございます。コメントありがとうございます。自分の行為が自分の業を作るのです。
身の丈修行者
2015年03月10日 07:40
自分の家系等で勘違いしてしまうのは、残念な流れになりかねないですね。
自分の生き方で、心に何もなく身体に執着のない人を目指し、そしてバラモンと呼ばれる(かもしれない?)ように精進したいです。

この記事へのトラックバック