悪行は結果なくとも心配だ悪行熟せば不幸のどん底

ダンマパダ 119、120

悪行が熟さない限り
悪人も幸福を経験する
ところが悪行が熟すれば
その時悪人は不幸を経験する (119)

善行が熟さない限り
善人も不幸を経験する
ところが善が熟すれば
その時善人は幸福を経験する (120)


○この詩から学ぶこと

 119番の詩は、今年2月16日の69番の詩によく似ています。今回は悪人になっているところが、前は愚か者になっています。http://76263383.at.webry.info/200902/article_16.html

悪行為の結果が現れるまで
愚か者はそれを蜂蜜のように思う
しかし、悪行為の結果が現れた時
愚か者は苦を受ける (69)


 悪行の結果が直ぐに現れないで、「熟する」ということがあるので、多くの人々は悪行をしてしまうのです。それがあるので悪行を止めるのには智慧が必要なのです。逆も同じです。すなわち、善行の結果も直ぐ現れないことがあります。やはり、「熟する」ということがあるのです。そのため、せっかく善行をしても、なかなか善い結果が現れないと、善行をした人が善行をやめてしまうことがあるのです。

 なぜ「熟する」ということがあるのでしょうか?少し考えてみましょう。「熟する」のパーリ語は「パッチャティ」ですが、この元の意味は「料理される」という意味です。すなわち、悪行や善行が料理されるという意味で、料理するには時間がかかるのです。材料を洗ったり、切ったり、煮たり、焼いたり、お皿に盛り付けたりしなければならないので、時間がかかるのです。一つの悪行をしてもそれに関連するいろいろな事柄があり、それらが複雑に関係していますから、単純には結果が現れないのです。一応そんなものだと思っておいてください。因縁関係は複雑で簡単には普通の人間には分からない事柄なのです。

 とろこで、119番と120番の詩は、結局何を私たちに教えているのでしょう。私は次のように考えました。「目先の結果にとらわれずに、悪行はしないように、善行をするようにしなさい」ということだと思います。すなわち、悪行は面白そうに見えても、得するように見えても、いずれ結果は悪いということです。善行は困難で面白くなくとも、また非難されることもあるかも知れない。でも善行の結果は善いのです。それを確信して、善い行いをするようにということです。

 119番、120番に関するスマナサーラ長老の法話は日本テーラワーダ仏教協会のホームページにあります。是非参照してください。http://www.j-theravada.net/howa/howa46.html

○悪行の結果なくとも心配だ悪行熟せば不幸のどん底 (119)
○善行の結果なくとも安心だ善行熟せは幸せいっぱい (120)

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年03月24日 04:53
ワンギーサさん、おはようございます。行為の結果を自分の心の状態だけに限定すれば、悪因悪果、善因善果は比較的すぐ実感できるように思えます。善行為をすると気分がいいからです。人間を社会的存在と考え、行為の結果を社会的価値観や通念、他人からの評価などを基準に照らし合わせた場合、悪を行っても幸せに感じる。又そう見える。ということはよくあることだと思います。逆に善もしかりです。今日の詩は自分の煩悩と仏道実践という点から理解したいと、自分なりには考えてます。そう簡単には煩悩の滅などは為し得ない。しかし、正しく実践すれば「因果法則」により必ず為し得る。と勇気づけたいからです。有難うございました。
ツヨシ
2009年03月24日 05:52
おはようございます。
高橋優太
2009年03月24日 07:57
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。
子供のころ、歯を磨くのが面倒くさくて、虫歯になりました。「歯を一日、二日磨かなくても大丈夫。」と思っても、原因が揃えば、虫歯になりました。中学生のころも、「テスト勉強やめよう、遊ぼうよ。」と友達と遊び、さんざんな点数になったことがあったと思います。
勉強せず遊んでるとき、歯を磨かないでいるときはどうってことはないけれど、その結果が熟せば、不幸になりました。一番恐ろしいのは、悪行為に気付かないことだと思いました。遊んでいるときは、悪いことをしているつもりはありません。しかし結果は最悪・・・悪行為に気付かない、真理を知らない無知がある限り、悪行為をする(それも自覚なしに)ので、その無知を直接観るヴィパッサナー実践は素晴らしい、と思いました。今日もありがとうございました。
まお
2009年03月24日 09:13
 ワンギーサ様、新さん、ツヨシさん、高橋優太さん、おはようございます。
 いったん法話をじっくり読んでわかったつもりになっても、また別の日や時間にもう一度じっくり読んでみると以前は気付かなかったことがわかることを発見しました。わかったつもりに気をつけようと思います。
 無知があるとその悪行をする時とその後に、行いの善悪の判断や心などの変化になかなか気づかないときがあります。その時の感覚に感情が酔ってしまうのです。無常がわかっていないからだと思います。それにも注意をしていこうと思います。
身の丈修行者
2015年04月20日 07:16
悪い事をしようとすると、心が曇るのを感じます。
良い事をしようとすると、心が明るくなるのを感じます。
良い事をした後、人にPRして賞賛して貰おう思い・時刻すると心が曇るのを感じます。
そのどちらかの連続で心がより曇って行くのか・明るくなっていくのか明確に思う時があります。
積み重ね、良い方向で大事にして生きたいです。

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