友がいる満足してる徳がある苦悩なければ幸福という(331)

ダンマパダ 第23章 象 331,332,333

困ったときに友がいるのは幸福です
どんなことにも満足するのは幸福です
命が終わるとき福徳のあるのは幸福です
一切の苦を捨てるのは幸福です

この世で母孝行できるのは幸福です
またこの世で父孝行できるのは幸福です
この世で出家者を敬うのは幸福です
またこの世で阿羅漢を敬うのは幸福です

老いるまで道徳を守るのは幸福です
確信が揺るがないのは幸福です
智慧を得るのは幸福です
悪いことをしないのは幸福です


○この詩から学ぶこと

 すべての人間は幸福を求めています。しかし、幸福になる人もいますが、不幸になる人もいます。なぜでしょうか? その問いに答える前に、何が幸福で、何が不幸なのでしょうか。それをしっかり考えておく必要があります。はじめは、抽象的に考えるのではなく、具体的に考える方が理解し易いのです。

 私たちにの生活は困難で、困ったことが多いのです。しかし、そのような時、親身になってくれる友がいれば、心強いし助かります。その時、幸福だと思います。この時の友は善友です。悪友であったら酷い目にあいます。

 私たちは結構不満が多いのです。先ず自分自身について不満があります。自分の体に不満があります。もう少し背が高ければよいのに、もう少し容姿が美しければよいのに、もう少し頭がよければよいのにと思います。人間関係にも不満があります。親は子供に対して、子供は親に対して不満があります。夫は妻に対して、妻は夫に対して不満があります。職場では上司と部下の間や同僚との間にも不満があります。社会や政治に対しても不満があります。切りがないのです。ところがどうでしょうか。「どんなことにも満足する」ことができたら、それは幸福ではないでしょうか。つまり、「 どんなことにも満足するのは幸福です。」

 この詩では、 「命が終わるとき、福徳のあるのは幸福です」と述べています。これは、輪廻を信じている人にとっては切実な事柄なのです、福徳があれば、死後悪い所に生まれ変わる心配がないのです。福徳があれば善い所に生まれ変わって幸せな生活が送れるからです。そのような人々にとっては福徳があることは幸せなのです。福徳があるとは、善行為をたくさん行ったということです。

 何が幸福が分からない人も、苦しみは知っている筈です。例えば、不満があるとはその不満による苦しみがある筈ですから、私たちは苦しみは実感を持って知っている筈です。ではそれらの苦しみがすべてなくなったとしたらどうでしょうか。それは幸福と言ってもいいのではないでしょうか。
ですから、この詩では「 一切の苦を捨てるのは幸福です」と歌っているのです。

 このようにして、この詩では、更に次のように、幸福とは何か述べています。

この世で母孝行できるのは幸福です
またこの世で父孝行できるのは幸福です
この世で出家者を敬うのは幸福です
またこの世で阿羅漢を敬うのは幸福です

老いるまで道徳を守るのは幸福です
確信が揺るがないのは幸福です
智慧を得るのは幸福です
悪いことをしないのは幸福です

 これで、幸福とは何か具体的に分かったと思います。では初めの問いを考えてみましょう。人間は幸福を求めているのに、不幸になる人もいるのはなぜでしょうか?

 不幸になる人は次のような人です。困った時に友がいないからです。どんなことにも満足をしないからです。死ぬ間際になっても福徳がないからです。一切の苦しみを捨てないからです。母孝行をしないからです。父孝行をしないからです。出家者を敬わないからです。阿羅漢を敬わないからです。道徳を守らないからです。生きるために必要な確信がないからです。悪いことをするからです。

 「この世で母孝行できるのは幸福です」から「悪いことをしないのは幸福です」までは、前回の「この詩から学ぶこと」に解説してありますので、参照してください。


○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200810/article_12.html
 善友満足福徳捨苦 孝行敬出家阿羅漢 道徳確信智慧不悪行

○この詩のパーリ語原文

331.
アッタンヒ ジャータンヒ スカー サハーヤー
Atthamhi  jātamhi    sukhā   sahāyā,
必要な時 生じた時   幸福だ  友
トゥッティー スカー ヤー イタリータレーナ
tuṭṭhī     sukhā   yā   itarītarena;
満足は   幸福だ こと  どんなことでも
プンニャン スカー  ジーヴィタサンカヤンヒ
Puññaṃ   sukhaṃ  jīvitasaṅkhayamhi,
福徳は   幸福だ  命が尽きる時に
サッバッサ ドゥッカッサ スカー  パハーナン
sabbassa   dukkhassa  sukhaṃ  pahānaṃ.
すべての  苦の    幸福だ  捨てること
332.
スカー マテッヤター   ローケー
Sukhā  matteyyatā     loke,
幸福だ 母を敬うことは  この世で
アトー ペッテッヤター  スカー
atho   petteyyatā     sukhā;
また  父を敬うことは  幸福だ
スカー  サーマンニャター ローケー
Sukhā   sāmaññatā      loke,
幸福だ  沙門を敬うことは この世で 
アトー ブラフマンニャター  スッカー
atho   brahmaññatā      sukhā.
また  阿羅漢を敬うことは  幸福だ
333.
スカン  ヤーワ ジャラー スィーラン
Sukhaṃ  yāva   jarā    sīlaṃ,
幸福だ  まで  老年   戒を守ることは
スカー サッダー パティッティター
sukhā   saddhā  patiṭṭhitā;
幸福だ 確信が  確立している
スコー  パンニャーヤ パティラーボー
Sukho   paññāya     paṭilābho,
幸福だ  智慧を     得ることは 
パーパーナン アカラナン  スカン
pāpānaṃ     akaraṇaṃ   sukhaṃ.
諸悪を    為さないことは 幸福だ


○友がいる満足してる徳がある苦悩なければ幸福という(331)
○親孝行この世で行い出家者と阿羅漢敬う幸福という(332)
○老いるまで戒を守って信があり智慧を得ること幸福という(333)


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~


 
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この記事へのコメント

才木広之
2009年08月19日 23:54
少し書きます

生きとし生けるものという言葉、覚えておいて下さい

それでは始めます

例えば、飢えで死んでる人がいます。それでも幸福になれますか。

善友が持てなくて苦しんでる人がいます。それでも幸せですか。

自我を無くさない限りは幸福にはなれないのです

生きとし生けるものの一部に自分をするのです

そして心は全体としての生きとし生けるものとしてひとくくりとしてみるのですみるのです。

何度かこの心を表現したく努力してきました。

また挑戦です。

では始めます

自分の体の細胞一個を仮に善友のマルマルちゃんとします。もう一つの自分の体の細胞を悪友のマルマルちゃんとします。仮に善友が良性の細胞、仮に悪友が悪性のマルマルちゃんとします。

さあ、自分の体をどうしますか。貴方は悪友のがん細胞を自分で取って捨ててしまうのですか、それとも努力して元気な体に戻りますか、それとも気にしないで放っておきますか。

ですから、曲げれもない真実なのです、生きとし生けるものというう言葉は、ブッダは幸せでありますようにとおっしゃっておられます

そうする事によって。
才木広之
2009年08月20日 00:10
あくまで僕はたとえで書いているだけであって、分り易いようにと思って体などで例えてるだけで、なんとか理解しようという気持ちが無ければ始まりませんよ
相手を理解しなければ、善友も悪友も判断できないんですよ。そんな簡単に、善友なんてもの見つかりませんよ。理解できなければ分らないんだから。終わり。生きとし生けるものが幸せでありますように



才木広之
2009年08月20日 00:18

どんなことにも満足する事は幸福です、とは、今の瞬間に不平不満を持たない、満足しているのだから、瞬間瞬間の事に集中しているということですね
才木広之
2009年08月20日 00:36
ここに悪友の事が書かれていますか、書かれていないでしょう。悪友であったら醜い目にあいますなんてよく言えますね。自分のがん細胞に、このがん細胞さえなければと言っているようなものですよ。あなたもおっしゃられているじゃないですか。どんなことにも満足する事が幸福ですと。そこから進むべき道を進めばよいことと思うのですが、そのような理解でよろしいでしょうか

 すべての人間は幸福を求めていますと書いていて、なぜ悪友であったら酷い目にあいます。とおっしゃられるのですか。
才木広之
2009年08月20日 00:42
たぶん間違いでしょうが、悪友であったら、よりも悪友に接するな、としたほうが良いのです
才木広之
2009年08月20日 00:45
不幸になる人もいます、ではなくて不幸だと思っている人もいます。でなければおかしいでしょう
才木広之
2009年08月20日 00:47
有難う御座いました

生きとし生けるものが幸せでありますように。
才木広之
2009年08月20日 01:02
風邪をひいたとき、私は、自分の体を慈しみます。

ワンギーサ先生またね。
2009年08月20日 05:05
ワンギーサさん、才木広之さん、おはようございます。慈しみの心をモットーに生き、自我をなくし悟りに至るのは幸福でしょう。悪友とは自分が「道徳」を破ることでしか「人間関係」が成り立たないような相手のことです。カネに困ったからといって、詐欺のグループに加担するのは、不道徳であり、生きとし生けるものの権利を奪ってます。問題は実際に自分が何を行為するかです。現実の世の中は、行為の善悪判断を無視したがために、一方で大富豪が生まれ、かたや毎日凄い数の人たちが飢えで死んでしまってます。つまりは「不道徳」ということです。しかし、どんな「不道徳」な行為をした人にも「怒り、敵意」の感情を抱くなかれ、というのがブッダの教えだと解釈してます。「道徳」を完全に守る人が「一緒に振り込め詐欺をやる」ことはありえません。親の面倒を見るためにお金が必要な人が、ギャンブル仲間と遊ぶことは成り立ちません。「悪行為で人と仲良しになること」に「満足する」ことなどは仏道を真面目に歩んでいればありえません。人を怨まなければよい。人は死んでしまいます。だから詩の項目をこなすことが、「幸福」への道なのだと思います。有難うございました。
あっきん
2009年08月20日 06:33
おはようございます。
”罪を憎み人を憎まず”と言うのを聞いた事あります。例えば犯罪を犯した人に対して憎むことは、悪感情でいつまでもしこりがある。だからと言って実際、人が罪を嫌っても犯人を憎む事を止められるかと言えば、なかなかできる事ではないと思います。なので「私が嫌いな人も幸せでありますように、生きとしいけるものが幸せでありますよう」とは超越した広い心を持つ為の訓練だと私的に解釈してます。なんと言ってもこの世で出家者を敬う事ができ幸福です。
才木広之
2009年08月20日 07:28
私はブッダを知るまでは悪友といわれるモノそのものでした。今の私は、ブッダのことば理解する糸口を見つけられました、慈悲の冥想、ヴィパッサナー冥想によって。私達は仏道においては、少なくとも糸口を見つけられているのではないでしょうか。僕たちが糸口になっていればと思うのです、不道徳をしている方にもブッダの教えをしるチャンスがブッダのことばにはあるのです。

だから誰も不幸な気持ちになろうと思って本心ではしてないんですよ。がん細胞もこの体を苦しめてやろうと思ってがん細胞ができるわけではないと思うのです

ただ体全体としては苦しむわけです。ですからいくら善友を持って、悩み苦しみが軽減しても。殺人などをした人こそ本当にかわいそうな人なのです。その方が真理日近づくときどんなに悩み苦しみ、嘆かれる事でしょう、僕は、はっきり言って殺人者に一番慈しみの心を持っています。しかし自分からは相手にしないだけで、僕は必要とされればだれとでも会います
2009年08月20日 08:14
僕の場合、単に法律に引っ掛かる(刑法など)悪さをしなかっただけで、仏教の言うところの十悪行などはほとんどやってました。しかし、スマナサーラ長老を通じて、ブッダの教えと出会い、自分のしたいことが「ただ刺激を求める」であることを知りました。そして、刺激を求める生き方に「心の平安」はないことに納得しました。自分の幸福もロクになさないで、人を幸福に導く自信などはありません。出きるのは「仏、法、僧」の存在をそれとなく困ってる人に知らせることくらいです。個々人がそこから何をどう学ぶかは私の管轄外だと考えてます。管轄内(仏法僧に帰依した)の人とは切磋琢磨してる現状です。だからこそ、出家者や阿羅漢の存在に敬意を表してます。生きとし生けるものの道しるべとして。
2009年08月20日 09:19
上記コメント、訂正します。小学生の時、万引きなどの悪さをした記憶がよみがえりました。自分の悪行為を隠蔽したり誤魔化したりすることは「かなりの重罪」です。従いまして、上記コメントの最初の部分は★「法律に引っ掛かるような悪さをしたが、警察沙汰にならなかっただけ」に訂正致します。有難うございました。
2009年08月20日 09:57
生きとし生けるものに対する一切の過ちを懺悔いたします。
あっきん
2009年08月20日 10:19
主観は人によって違う。誤解を受けられないように私は、自分のためにこのプログを見て、時にコメントしてます。未熟な点が沢山ありますから、仏陀の言葉を参考に少しでも向上できればと思ってます。
才木広之
2009年08月20日 13:00
私たちに唯一あり得ることは僧です

私たちには僧になり得るチャンスまであるのです

なのに自分たちだけで、理解できるような事柄を言うのでしょうか。

理解できませんよ、こんな難しい事柄は、ブッダに触れていない人には、今まで接してきた人がいたからこそ(全てです)、ブッダにふれられている自分が有ることをどうか忘れないでください。ブッダに触れた以上は全て自分の責任です。しかしブッダに触れていない方には微妙なところだと思うのです。だからブッダに触れられていない人に、仏法僧とは何なんだろうと興味を持たせるような書き方でなくてはいけないのです
すみません仕事の時間です
2009年08月20日 13:20
あの~ですね。私が言ったのはもっと広い意味の事柄です。スマナサーラ長老の講演会のチラシをお配りしたりすることもそのひとつです。いいですか?私は自分である日書店に行ってブッダの教えと出会いました。ひとつのきっかけです。多分人から強制されたらどうなっていたのかわかりません。つまり私の出きることは「日本に今テーラワーダの教えがあり、スマナサーラ長老という方がご活躍ですよ」という事実をお知らせする程度なのです。私が嫌なことはやはりできないのです。つまり私なりに過剰宣伝と思われる行為です。
ワンギーサ
2009年08月20日 19:10
皆さん、コメントありがとうございます。

才木広之さんへ。
 才木の気持ちよく分かります。私も才木さんと同じような思いを持っていました。ダンマパダの61番、78番、328番、330番などに、「愚か者を道づれにしてはいけない」「悪い友とは付き合うな」「愚か者と付き合うよりは独り歩む方が良い 」などと書かれています。それならば、悪い友や愚か者は救われないのではないかと思ったのです。しかし、それらはすべて釈尊の言葉です。釈尊が間違ったことは言う筈がないのです。釈尊の意図を汲む必要があるのです。
 釈尊はすべての生命に哀れみを持って見守っています。修行の完成していない修行者には、修行の妨げになることを注意してるのです。善友の力が大きいように、悪友の影響は大きいのです。修行者はその点に注意しなければならないのです。
 愚か者や悪友の心配は修行の完成した悟った人や僧侶に任せなければならないのです。僧侶は修行を完成させることが第一でありますが、仏教を人々に知らせることも仕事ですから、すべての人々に仏教を知らせる仕事もします。
 修行者はまず、自分の頭に降り注ぐ火の粉を振り払わなくてはなりません。
 
才木広之
2009年08月20日 19:44
おっしゃられる通りだと思います。だからこそ注釈する時に、間違いを起こすことが罪だと言っているのです。勧誘しろとか宣伝しろと言っているわけではありません、いいですかよく聞いて下さい。

何もしなければスマナサーラ長老の御本を読んでいた可能性のある人が、ブッダの法話をされるワンギーサさんのことばを聞いて、受け取り方を間違えて、ブッダとはこれほどの人か読んでも仕方ないなとなってしまうことを、恐れるからです、それならば、確実に納得して、理解して喋られるなら、よいのですが、また不安なところを注釈せずの老いたほうが、悪を犯すより良いことだと思うのです
でも、仏道を勉強している人は分ってくれるだろう。という思いがあれば少しでもあれば傲慢なのです
せっかくこうして公開するなら仏道に縁のない人にも知ってもらいたいという思いが有るでしょう。

ワンギーサ先生ありがとうございます

生きとし生けるものが幸せでありますように
才木広之
2009年08月20日 19:58
これは、書いてはいけない事ですが何度言っても分からないから書きます

悪人がワンギーサさんの法話を読んで、自分をけなしているとか、それだったら自分はいないほうがいいんじゃないかと思わせるような、書き方に知らず知らずにでもなっていては困るから、忠告してるんです。

ブッダ、スマナサーラ長老のほうはで今まで一度もそのような感じを、悪人の僕は感じた事が無いから言うのです。けれどワンギーサ先生のことばにはかなり感じられるのです。

よく覚えておいて下さい。悪人に自分から接する必要はないでしょう。けれど悪人を思いやる心は持っておいて下さい。それはこうして私が行っているように厳しく接する事が悪人への思いやる気持ちです。

生きとし生けるものが幸せでありますように
才木広之
2009年08月20日 20:02
なーんちゃって、いろいろ書いたけどごめんよ、僕はバカだから、思いつくこと書くけど気にしないでね、ワンギーサ先生、新さん、あっきんさん、高橋さん、それから一番大事な、ツヨシさん。みんな生きとし生けるもの。

生きとし生けるものが幸せでありますように
才木広之
2009年08月20日 20:37
私にとっては、悪人を見て見ぬふりをするのも、悪と業なってきておるのです。自分の体にがんが有れば、自分で取って捨てるのでもなく、気にしないのでもなく、自分で克服したいのです。だって自分の体だから
生きとし生けるものとは、自分の体の事です(例えているのですが誰か分りますか)

生きとし生けるものが幸せでありますように
2009年08月21日 05:55
うーん、以前スマナサーラ長老の説法で「煩悩組合」というのがとても印象に残ってます。私なりに「善友もどき同士がつるむもの」と解釈してます。その人を「善友」と思うがために受ける影響ははかりしれないのでしょう。逆説的ですが、真の「悪友」は自分が「善友」だと解釈して付き合っている人たちなのかもしれません。だからこそ「ブッダ」を善友にしていれば、と。「ブッダ」は先生でもありますが、それは単に知識を伝授するだけの存在ではないでしょう。単に知識を伝授する存在でない限り、師弟関係に誤解はつきものと言えます。正解はそうした誤解の中での葛藤の中で各自が自力で最終的に出すものだと考えてます。ある問いに「正解」を出してしまう生徒がいれば、その他の人の居場所(存在理由)がなくなります。「ブッダ」は偉大な先生だな~とつくづく思いました。有難うございました。
2009年08月21日 06:59
師弟関係について具体的には、先のワンギーサさんのコメントによく現れていると思います。自分にはわからない「何か凄いこと」を知ってるんじゃないか、いや知ってるに違いないという確信が、ある人物に関しての「師弟関係」の基盤になっていると考えられます。人間って学びの中で初めて気づかなかった「本来知りかたったこと」に出会い、そして気づくのだと思ってます。単なる知りたい知識を求めるならば、辞書の類でもいけちゃいますから。ただ、才木さんが指摘されたように、これが「正解」だと変に感じさせてしまうような表現であれば、問題があるのだと思います。私の正直な感想を率直に言わせて頂ければ、ブログの紹介にある「スマナサーラ大長老に教わった」という文言が非常に気になります。これは、このブログでの解説=スマナサーラ長老、のような誤解を生じさせやすいと感じてます。「師匠はスマナサーラ長老」というだけで十分ではないか?というのが私なりの正直な感想です。大きなお世話ですみません。有難うございました。
身の丈修行者
2015年06月10日 07:51
ワンギーサ長老の分かり易いコメント「修行者はまず、自分の頭に降り注ぐ火の粉を振り払わなくてはなりません」心に響きます。
私事ですが、冥想合宿で無言行の実践の機会なのにしゃべってしまった事がありました。折角合宿に参加させて頂きながら火の粉を自分で作ってしまったと大反省しました。
修行中の身ですので火の粉を被らないよう、そして自分が火の粉にならないように注意したいです。

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