渇愛の根の根絶がない限りこの苦しみはまた現われる(338)

ダンマパダ 第24章 渇愛 338

根が安全で強固ならば
木が切られても再び成長するように
潜在する渇愛が根絶されない限り
この苦しみは何度も現われる


○この詩から学ぶこと

 人里はなれた山の中の瞑想道場で2,3ヶ月、瞑想修行していると欲や怒りが現れなくなることがあります。その時、自分の煩悩は消えた。渇愛がなくなったと思ったりします。もしかしたら、悟ったかななどと思ったりする人もいるかもしれません。煩悩、渇愛は条件が整わないので、現れないだけなのです。感覚器官を通じて、心にいろいろな刺激が入るとたちまち煩悩、渇愛があらわれます。

 山から下りて、街に入り、雑踏の中で他人にぶつかったりすると、「何だこいつ」などと怒りが現れたりします。また、ショーウインドウの中のケーキを見ると急に食べたくなったりするのです。ですから、単に、感覚への刺激を遮断して、煩悩が現れないようにするだけではだめなのです。物事に対して価値を置かない状態に至る必要があるのですが、初めは価値観を変える、価値観が変わるような修行が必要なのです。人とぶつかれば、相手をかわいそうと感じる。ケーキを見ても食べたいと思わないなどです。貪、瞋、痴の心から不貪、不瞋、不痴の心に変える修行が必要です。

 と言っても何か特別な修行が新たに必要だとうわけではなく、慈悲の瞑想をして慈悲の心を育てることです。また、ヴィパッサナー瞑想で智慧を開発することなのです。智慧が開発されると、価値観が変わります。そして、何事にも価値を置かないという境地ができると思います。そうすれば執着がなくなります。執着がなくなれば、それは解脱でしょう。

 潜在的な煩悩、潜在的な渇愛は、形に表れていないものですから、なかなか自覚できないので克服することは困難ですが、「求めることなく、止まることなく」、渇愛、煩悩の激流を渡れば、向こう岸に到達すると釈尊は仰っています。その言葉に確信を持って勇気を持って進みましょう。

○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200810/article_16.html
 渇愛の根の根絶がない限りこの苦しみはまた現われる(338)

○この詩のパーリ語原文

338.
ヤターピ ムーレ アヌパッダヴェー ダルヘー
Yathāpi   mūle   anupaddave    daḷhe,
であれば 根が   安全で      強固で
チンノーピ   ルッコー プナレーワ  ルーハティ
chinnopi     rukkho   punareva    rūhati;
切断されても  木が   再び ように 生長する
エーワンピ タンハーヌサイェー アヌーハテー
Evampi    taṇhānusaye      anūhate,
ならば    潜在する渇愛が   根絶されない
ニッバッタティー ドゥッカミダン  プナップナン
nibbattatī      dukkhamidaṃ  punappunaṃ.
起こる       この苦が     再三再四

○渇愛の根の根絶がない限りこの苦しみはまた現われる(338)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~


 
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この記事へのコメント

才木広之
2009年08月23日 23:08
善友ワンギーサ先生、これからも拝読させて頂きます。

心に栄養をいただきました。有難う御座います

生きとし生けるものが幸せでありますように
2009年08月24日 05:37
ワンギーサさん、おはようございます。確かに、環境によって人の振る舞いは違いますね。自覚されたものかどうかわかりませんが、状況次第で全くの別人になります。「親しきものにも礼儀あり」とはそんな場合のリスクを回避する人々の知恵のようにも思えます。自分にできることは、とにかくどんな状況下でも「五戒」だけは必ず守ること。そして、その時の心をしっかり観察することです。有難うございました。
2009年08月24日 05:41
親しき中にも礼儀あり。でした。
2009年08月24日 05:42
親しき仲にも礼儀あり。でした。
2009年08月24日 07:02
以下のことはあまり人には薦められません。私は読書が好きなのです。その際、どうしても論理的、実証的、道徳的なものを選びがちです。最近私は、多くのジャンル多くの著者を「所詮は妄想の産物、欲・怒り・無知の土台」と馬鹿にして無視してる自分に気づきました。仏教至上主義は時に高慢を生みます。だから、最近の本選びは、「戦争、殺しは必要」「欲や怒りは否定してはならない」「絶対的真理こそ真理でなく妄想にすぎない」「脳内現象が全て」という内容などの本を積極的に選んでます。反仏教的ですが、大変勉強になります。その場合、批判的に読むのではなく、賛同する気持ちで読んでます。さすがに、はじめに「神」ありきのキリスト教関係のものを主観的に読むのは大変難しいですが、テーラワーダを狂信するのことを防いでくれます。そんな経験を通じて感じたのは、常に「生きるとは何か?を心の奥底から真に求めてこそ」の仏教ということです。強い疑問がエネルギーになります。有難うございました。
2009年08月24日 07:21
上記コメントで、薦められるのが、本を読んでいてたまたま「世の中に欲や怒りをなくそうなどという世間知らずがいるが、それは完全な間違えで不幸を招くだけだ」という文言に出くわしたような場合、「この馬鹿、仏教でも勉強すりゃいいのに」と怒りや高慢の気持ちを避けて「一体何のことだろう?この作者は何かを訴えているに違いない」と考えてみることです。有難うございました。
2009年08月24日 08:02
今日の解説に出てきた「人とぶつかった」から怒る、というのはさほど深刻じゃないと思います。深刻なのは、自分のしてること、しようと頑張ってること、そして正しいと思ってることを他人に否定された場合です。人には自分がしてること、やってきたことを正当化したいという心理があります。幸か不幸か、私のまわりは反仏教者ばかりです。「人類最大の詐欺師は釈迦である」と私に話した人がいます。その時、「仏教を知らない可愛そうなひとだな」と思いましたが、むしろ相手を見下す高慢が強く働いてました。確かに違った意味で「釈迦はとんでもない詐欺師」なのかもしれません。全面否定するのでなく、そういう受け入れ方をすることの重要性をむしろ感じます。もし仏教が科学的であるならば、ポパーの主張するように「それが反証可能」である必要があります。これは、文字通りの反証ではなく、「仏教に対する保留的、批判的な態度」とも言えるかと思います。有難うございました。
2009年08月24日 08:43
それからもってしんどいのが、それなりに宗教や仏教を知って修行してる人からの否定です。実際、ゴータミーでの瞑想会帰り道、友人と一緒にある人と出くわしました。つまり絡まれたわけですが、「スマナサーラ長老はエセや!あんたらな、よくあんな所で文句も言わず頑張っておるな。わし、感心するよ、あんな人についていく人らにはな。不思議でたまらんわ。そういう意味ではスマナサーラ長老という人物は大物と思うで」といきなり言われた時は、言葉も出ませんでした。帰宅後、味わったことのない、いやらしい「怒り」がこみあげてきたのですが、この種の「怒り」はとてもタチが悪いです。人の言うことに「素直に謙虚に耳を傾ける」。まずは相手を受け入れれる。まさに、「言うは易く行うは難し」。です。有難うございました。
2009年08月24日 13:22
私は既に難病です。当然癌にもなるでしょう。これは大した問題ではありません。
2009年08月24日 13:43
要は心の問題で、それを「解決した」という気持ちが問題なわけです。言いたいことは、その「未解決のこと」に顕在的レベルでもいいから、それと向き合う心の準備です。つまりは「潜在煩悩」をないことにしてしまおう、ということへの自戒です。自分に対してはとかく甘いものです。
2009年08月24日 14:12
自分自身に対する誤解でどうしようもないのが、「自分は悟った。欲がなくなった」という気持ちです。修行は独りでやるものですから、他人から誤解を指摘されません。瞑想中に喜悦感などが現れても、瞑想の基本としては「それにとらわれず」ですが、とらわれた場合「まだまだ欲への執着がかなりある」と事実を認めることが大切だと思ってます。全ての煩悩をなくさない限り、「瞑想がうまくいった」とは言えない(内心思ってはならない)と反省してます。言えるのは「失敗」だけです。
2009年08月25日 05:59
才木さん、おはようございます。いろいろコメント有難うございます。つまらないことかもしれませんがひとつ気になることがあります。最後のコメントで「あなた方」、「私ども」というのはどういう意味なのか私にはさっぱり不明です。もう少しその辺を詳しく説明して頂ければ幸いです。宜しくお願いいたします。
2009年08月25日 06:44
才木さんの言われる「あなた方」についてにおける私の関係。面識があるのはワンギーサさん、ホーシノヒトリゴトさん(以前のコメント常連)だけです。あっきんさんとは、もしかして面識はあるのかもしれませんがどなたかは知りません。ツヨシさんと高橋優太さをとはこのブログ以外での接点は全くありません。それから、陽明学研究家の林田先生ともこのブログで知り合い、著書を何冊か読ませて頂きました。このブログ以外での接点はありません。尚、これらの方々の関係については私は全く知りません。
2010年06月30日 07:54
「求めることなく、止まることなく」
渇愛、煩悩の激流を渡れば
向こう岸に到達する

ありがたい言葉です。
少し筒でも執着が減り
良い方向へと向かっているでしょうか。
慈悲の瞑想とヴィパッサナーで
今日も精進いたします。^^
身の丈修行者
2015年06月12日 06:12
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「山の中・・煩悩、渇愛は条件が整わないので、現れないだけ・・貪、瞋、痴の心から不貪、不瞋、不痴の心に変える修行が必要です」心に響きます。
条件が整わないだけ現れないのに悟ったと誤認する事無く、不貪、不瞋、不痴が身につくように精進したいです。

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