生命の構成要素の生滅を触知したなら不死の境地だ(374)

ダンマパダ 第25章 比丘 374

五蘊の生滅を
触知したならば
不死を知った人の
喜悦を得る


〇この詩の蛇足

 五蘊とは、色、受、想、行、識のことです。色は肉体、受は感覚、想は思考(概念)、行は感情(衝動)、識は認識です。この五つは生命の構成要素です。ですから、この五つをまとめたものが生命です。色は肉体ですが、受、想、行、識をまとめて心と言います。

 「五蘊の生滅を触知したならば」とは、「生命が生まれ、死ぬことを体感したならば」と言う意味です。生命というと、一般的過ぎて、理解しにくのですが、もっと分かり易く、「自分自身が生まれ、死ぬことを実感できたならば」と考えた方が分かりやすいのです。更に、自分自身を分析して、自分の肉体、自分の感覚、自分の思考、自分の感情、自分の認識と分けて考えるとよいのです。

 このように考えると、自分の肉体は変化していることが分かります。変化しているということは、少し前の肉体が死んで、新しい肉体が生まれたのです。同様に、自分の感覚も絶えず変化していることが分かります。例えば、お腹すいているとき、美味しいと感じても、お腹がいっぱいになると、美味しくなくなるというように、ある時の自分の感覚は死んで、新しい感覚が生まれるのです。自分の思考も同じです。自分の感情も同じです。自分の認識も同じです。

 五蘊の生滅を、頭で理解するだけでなく、「触知したならば」とは実感するとか、腑に落ちたならば、自分とは絶えず変化して、この自分の肉体とか、この自分の心などは固定したものではなく、執着する自分がないのだと本当に納得できるようになります。そうすると執着するものがなくなってしまうのです。

 「不死」とは涅槃を意味する言葉です。「不死を知った人」とは「涅槃を体験した人」です。五蘊の生滅を触知したならば、涅槃を体験した人の「喜悦を得る」ということです。これが今回の詩の意味です。

〇前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200811/article_11.html
 生命の構成要素の生滅を触知したなら不死の境地だ

〇この詩のパーリ語原文

374.
ヤトー ヤトー サンマサティ
Yato   yato   sammasati,
何となれば   触れる
カンダーナン ウダヤッバヤン
khandhānaṃ  udayabbayaṃ;
五蘊の     生起 滅亡を
ラバティー ピーティパーモッジャン
Labhatī    pītipāmojjaṃ,
得る      喜悦を
アマタン タン  ヴィジャーナタン
amataṃ  taṃ   vijānataṃ.
不死を  彼は  了知した 

〇生命の構成要素の生滅を触知したなら不死の境地だ(374)

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~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
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この記事へのコメント

2009年09月18日 04:30
ワンギーサさン、おはようございます。「不死」だの「涅槃」だのと言われても実に困ってしまいます。「困りたかったらダンマパダ」の心境です(笑)。ところで、こうして生きてる上で色々「困る」ことがあります。そんな時、一種の呪文みたいに「一切は無常である」「無常ならざるものは何もない」「すべては因縁によって生じた一時的現象である」と思うと「ホッと」落ち着けます。しかし、最初は正直「無常」なんて嫌でした。ものは「ある」のです。だから落ち着けません。仏教を学んでいくうちに「やはり無常は真理らしいな」と思いはじめ、すると「努力すれば」心が落ち着けました。半日かかることもありましたが。今では、数秒以内に大抵は落ち着くことができます。それは「固定した自分などない」と賦に落ちてるからです。この場合は呪文でなく観察といった方がいいでしょう。また、「無常」を前提に観察しても「固定した自分がいる」と思ってる限りは、あまり役立たない気がします。そんなことからも無明と渇愛から苦しみが生じる。そんなプロセスがいろんな形で実感できます。苦しみたくないので、「渇愛と無明」を修行で滅するしかありません。有難うございました。
あっきん
2009年09月18日 07:46
おはようございます。
 秋らしくなり、気候の変化で風邪気味の人が増えてます。皆様もお気をつけてね。風邪を引くと咳や熱が出て、体がサインをして気づかせてくれます。固定していたら、病気にもならないし死にもしなでしょう。が・・受け入れるのが嫌で抵抗します。以前の詩で悟ると喜びが溢れ出ると書いてありましたが、実際よく分かりませんが、仏陀は無我・涅槃を考えるキッカケを与えてくれてます。経験者は語ると捉えます。
生きとし生けるものが幸せでありますように
才木広之
2009年09月18日 12:31
そうですね。無常ですね全ては。

だから思考も必要ないですね.思考はもはや結果ですね

心はそれよりも早く気づいてますね。何をしなければいけないのかは。そのあとに出てくる思考というものはあんまり頼りがいがないものですね。思考より以前に気づいているものを発見できればいいのですね。こころ

生きとし生けるものが幸せでありますように
身の丈修行者
2015年06月20日 07:40
周囲が変化する事は気がつけても、自分も常に変わっている事は気がつかない印象があります。
冥想で自分をしっかり観察し、無常の智慧が持てるように精進したいです。

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