衣服にも食べ物にも価値置かず冥想する人をバラモンと言う(395)

ダンマパダ 第26章 バラモン 395

糞掃衣をまとい
やせて血管が現われている
独りで森の中で冥想している
私は彼をバラモンと呼ぶ



〇この詩の蛇足

 この詩のできた因縁物語は次のようなものです。ある夜、キサーゴータミー長老尼が釈尊の所に挨拶にきました。ちなみに、キサーはパーリ語の本文にもありますが、やせたという意味です。ですから、彼女の名前は「やせたゴータミー長老尼」ということです。ちょうどその直ぐ後に、神々の王であるサッカが訪問に来ました。サッカは、ぼろ布で作った衣をまとって、血管が見えるほどやせた尼をみて、彼女はだれなのか?」と釈尊にたずねました。
 釈尊は「彼女はキサーゴータミーである。もっとも優れた修行者の一人で、すでに阿羅漢である。
彼女は糞掃衣をまとい、痩せて血管が現われている、彼は独りで森の中で冥想している、私は彼(女)をバラモンと呼ぶ」と賞賛されました。

 糞掃衣とは、捨てられた布を洗い、縫い合わせて作った衣のことです。これは粗末な衣類に満足しているということです。394番の詩にあったように外面を飾らないということです。また、やせて 
血管が現れているとは、わずかな食べ物で満足しているということです。そして、森の中で、一人で瞑想に励んでいる彼女は、涅槃を体験し、阿羅漢になったのでした。


〇前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200812/article_3.html
 衣服にも食べ物にも価値置かず冥想する人をバラモンと言う
 

〇パーリ語原文

395.
パンスクーラダラン  ジャントゥン
Paṃsukūladharaṃ   jantuṃ,
糞掃衣を身に着ける 人間を
キサン  ダマニサンタタン
kisaṃ   dhamanisanthataṃ;
やせた  静脈が広がった
エーカン ワナスミン ジャーヤンタン
Ekaṃ    vanasmiṃ  jhāyantaṃ,
一人で   森の中で 瞑想する
タマハン ブルーミ ブラーフマナン
tamahaṃ  brūmi   brāhmaṇaṃ.
彼を私は 呼ぶ   バラモンと

〇衣服にも食べ物にも価値置かず冥想する人をバラモンと言う(395)


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~


10月10日(土)2009年第5回初期仏教一日体験会のご案内

スマナサーラ長老の講演と冥想指導が一日で受けられる!
※10月中の東京での冥想指導はこの日だけです。
2009年第5回初期仏教一日体験会
「幸福」の道は「友情」で完成する
~お釈迦さまが称賛する「善き仲間」とは~
講師 アルボムッレ・スマナサーラ長老
日程 2009年10月10日(土)
会場 銀座ブロッサム(銀座中央会館)
参加費 1,000円(当日支払い)要予約,先着900名
予約申し込みはお早めに!
http://www.j-theravada.net/

 
◎お願い:今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』をクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。

この記事へのコメント

才木広之
2009年10月07日 21:45
ワンさん

物乞いは最低、捨てられたものを拾うことは最高

生きとし生けるものが幸せでありますように
2009年10月08日 03:07
ワンギーサさん、おはようございます。今の私の理解では、この詩を理解するに「偉大なる人の思考」の一章から三章までのスマナサーラ長老の解説を読むのが一番だと思いました。微妙なところで誤解しやすい(阿羅漢を主観で判断)。例をあげればp35「たとえ少欲であっても、自分のことを認めてもらいたい、という願いだけはみんなにあるのです」。p54「「この人々は、ひとからいただいたもの、乞うたものを食べているのに、乞食で食べているのに、この喜びは何なのだ、なんでこんなに充実感があるのだ」とみんな驚くのです」。p64「人がいてもいなくても、こころには揺るぎない安らぎがあるのです」。…他にもたくさんありますが、独りで冥想することに何かあると思いました。有難うございました。
才木広之
2009年10月08日 04:21
面識のない新さん

心の事ですが、対象が、無くなった瞬間です

生きとし生けるものが幸せでありますように
才木広之
2009年10月08日 04:21
面識のない新さん

心の事ですが、対象が、無くなった瞬間です

生きとし生けるものが幸せでありますように
2009年10月08日 06:30
面識のない才木さん。悟りの瞬間は「言葉で表現できない」とはよく言われてます。スマナサーラ長老著「無常の見方」のp220に「現象が成立しないので変化そのものが世界のありのままの姿である」とわかります。単に「対象が無になる」と表現すると意識不明な状態も該当するような誤解を与えるように思えます。実際、一種の錯乱状態で「悟った」と勘違いする例もあるようです(出処は忘れました)。違う原因でも起こるかもしれません。一応私は「無常、ありのまま」という点がポイントかと思ってます。いずれにせよ、阿羅漢の「悟りの瞬間」みたいなものを言葉にできるのはブッダ以外不可能だと「無常の見方」にも書かれてます。私の意見は語り得ないものについては「こうではない。少なくともそれは違う」と「間違い」を知っていくしかないと思ってます。言い換えれば、「正しい方向からずれない」ようにすることかな。と。「偉大なる思考」もそういう手引き書として読んでます。「正しくある必要はない。但し間違いを正しいとはするなよ」と。「悟れば自然とわかるよ」と。
2009年10月08日 11:16
こんにちは。少し脱線なのですが、お釈迦様が、出家されて、ブッダになられるまでのエピソードが頭に浮かんでしまいます。最初、当時有名な仙人に「無色界禅定」を学びすぐ修得されますが、それは「悟りではない」と仙人のもとを去り、次に「断食等の苦行」の道を選ばれます。しかし、それも「悟りの道でない」と苦行を捨てられ、菩提樹の下でついに「正覚者」となられました。ブッダの「悟りへの冥想」=「ウ゛ィパサナー冥想」が現在こうして学べるのは、実に得難い経験だと思います。~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように!~
ときこ
2009年10月08日 17:16
ワンギーサ様  皆様
初めてコメント致します。ダンマパダと、解説、そしてパーリ語にカタカナ表記と盛りだくさんで興味深いです。ナイスの気持玉に一票です。
パーリ語にはまったく触れる機会が無く、何も知りません。そこで、質問があります。このパーリ語をじっと見ておりますと、なんだか日本語のローマ字表記や中国語のピンインや英語の発音記号のような印象があります。パーリ語の初期のお経は、どのような文字で表記されていたのでしょうか?  合掌
ワンギーサ
2009年10月08日 18:27
ときこさん、コメントありがとうございます。
パーリ語には本来の文字はなかったのです。発音だけでした。ですが、後にセイロン文字、ビルマ文字、タイ文字などで表記されるようになりました。西洋や日本ではローマ文字が普通に用いられています。
ときこ
2009年10月09日 20:51
ワンギーサ様
お経は、口承だったのですね。すごいです!お坊様方は、たくさんのお経のすべてを口伝で暗唱されていたのですね。美しいメロディもきっとその為なのでしょうね。呪文の様にではなく、理解できて、しかも美しいメロディにのせ、お経を教えて頂きたいものと、思ってしまいます。変な妄想しちゃいました。
もっと、ダンマパダの内容に集中し、自分を見つめてみたいと思います。お返事いただき有難うございました。
合掌
身の丈修行者
2015年06月30日 20:03
本文を拝見し、服や食べ物に執着しない境地を感じました。
私は服は華美でない面はある程度クリア?してると思いますが、食事の方は食べ過ぎる・・時があります。徐々にでも戒め・執着しないように努めたいです。

この記事へのトラックバック