95.大地のように怒ることなく、門柱のように堅固に務める

ダンマパダ 第7 阿羅漢の章 95

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマー サンブダッサ
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します



大地のように怒ることなく
門柱のように堅固に務める
かれは泥なき池にも似たり
かかる者に輪廻は起こらず


(片山一良先生 訳)


〇超訳の試み

大地のようの怒らない
門柱のように慎み深く
濁りのない池のような
そのような人には輪廻はない


〇子供のダンマパダ

怒らないもの知っている?大地だよ
蹴っ飛ばしても、穴を掘っても怒らない
黙って入り口を守っているもの知っている?門だよ
悪いことが入らないように見張っている
聖者は大地や門のような人だよ
すべての勉強が終わったから、もう生まれ変わらない





〇一口メモ

 前回の「この詩から学ぶこと」は、まだまだ理解の程度が低かったと思います。「門柱のように慎み深く」を道徳を守っていると解釈しましたが、この章は阿羅漢の章です。阿羅漢はすべての煩悩をなくした人ですから、道徳を守るという意識も必要ないのでしょう。すべての行為は自然に法に従っているはずです。ですから、三行目の「濁りのない池のような」人なのでしょう。そのような人は苦しみの輪廻から脱っしていると言うことでしょう。

 前回の「この詩から学ぶこと」は、まだ解脱してない凡夫には役に立つことを書いてありますから、是非お読み下さい。


〇前回の「この詩から学ぶこと」

怒らない慎み深く清らかな そんな人には輪廻はないぞ
http://76263383.at.webry.info/200903/article_11.html


〇パーリ(語)原文

95.
パタウィサモー ノー ウィルッジャティ
Pathavisamo    no   virujjhati,
土地 同じ    ない  怒ら
インダキールーパモー ターディ スッバトー
indakhīlūpamo       tādi     subbato;
王 標柱 同じ      如き    善行者
ラハドーワ  アペータカッダモー
Rahadova   apetakaddamo,
池の 如く  離れた 泥から
サンサーラー ナ バワンティ ターディノー 
saṃsārā     na  bhavanti   tādino.
輪廻は    ない 存在し    そのような人には

〇今回の詩のパーリ語について、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに「ダンマパダ輪読会 文法事項のまとめ( 記録文責;柴田尚武 先生 )」がありますので是非御参照下さい。
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp87-99.pdf


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)


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この記事へのコメント

ワタナベ
2010年01月15日 01:19
前回のブログで学ばさせて頂きました。
>「大地」に唾をしようと、蹴飛ばそうと、穴を掘ろうが、大地は何も言わずに、びくともしません。そのように、悪口を言われようが、暴力を振るわれようと怒らない人、そのような人は相当な人格者です。
☆本当にその通りだと思います。あと前回のワンギーサ師のコメントで↓
>釈尊はどんな時でも、相手の話をよく聞いて、相手の土俵の中で話しをしたということです。つまり相手の言葉で相手の言葉の使い方で、相手の考え方で、その考え方の、問題点や矛盾を、自分自身が気がつくように教えていました。決して自分の言葉で、自分の考え方を押し付けるようなことはないのです。
☆これが経典を読む際の重要なポイントだと僕も思いました。僕がパーリ仏典がほぼ釈尊の言葉を残しているであろうと推測する理由もそこにあります。つまりこういった釈尊の説法、論法、着眼点はただ「アビダルマ的に」仏教教義を学んだところでわかるものではないような気もします。
経典から釈尊の説法の仕方を学べば、今我々が抱えている人間関係の問題に十分応用が効くものと思われます。
ありがとうございました。
2010年01月15日 01:24
ワンギーサさん、おはようございます。質問があります。前回と今回の比較で、前回は「怒りに基づく行為は不幸=悪因悪果。慈しみに基づく行為は幸福=善因善果。だから、道徳、慈しみに基づく行為をすべき」という意味。今回指摘されたのは阿羅漢は輪廻の世界を脱出したのだから「悪因悪果は勿論、善因善果さえもはや存在しない」という意味。なのでしょうか?有難うございました。
あっきん
2010年01月15日 02:51
新年祝福法要で、スマナサーラ長老が門松の由来についての話が印象的でした。
神が下界に降りてくる時の目標物と考えられているそうで、矛盾点まで言っていた。日本人の私でも、知らなかったし、関心が無いので家に門松も門柱に付けませんでした。煩悩があると自然に反する事をしてしまうのかな。話は違いますが、人から必要とされるとやりがいが出てくるこの頃です。
生きとし生けるものは幸せでありますように。
ワンギーサ
2010年01月15日 08:03
 ワタナベさん、新さん、あっきんさん、おはようございます。今日はウポーサタですので、早めに八王子の禅東院さんに出かけます。長くは御返事できませんが、一言ご返事します。

 ワタナベさんへ。前回のコメントまで読んで頂きましてありがとうございます。経典は読めば読むほど、新しい発見があり、新しい智慧を学べるので興味が尽きないですね。

 新さんへ。阿羅漢は因果律を脱しているといえるかどうか分かりませんが、アビダンマによると阿羅漢の行為は業にならないそうです。アラナ精舎のウ・コーサッラ長老にお伺いすれば、正確なことが分かると思います。

 あっきんさんへ。人から必要とされた時は自分を無にしてそれに応えることです。そうすれば、それによる疲れとかストレスはうまれません。逆にエネルギーをもらえます。でもあんまり無理せずに、がんばって下さい。
おんがえし
2010年01月15日 16:49
 昨日は、長文のコメントを掲載して下さりありがとうございました。
 J.クリシュナムルティ師は、このようにおっしゃっておられます。
 瞑想がおこっているかどうかは頭が完全に静まっているかどうかでわかります…中略…
 その静まりは眠りではありません
 とほうもなく活発で だからこそ 静まっているのです
 頭は発電機のように摩擦があると騒音をだしますが
 完璧に動いているときにはほとんど音をたてず静かになります…中略…
 中心となるようなものはなにも存在していません(「瞑想」J.クリシュナムルティ著中川吉晴訳、星雲社)

 スマナサーラ長老は、ヴィパッサナーの集中瞑想の指導において、歩く瞑想をセットから省くことはできないと基本的指導されていると思います。
 また、実況中継は隙間なく行うことがポイントであると指導されていると思います。
 さらには、実況中継は竜巻のように行ってくださいと指導されることもあると思います。
 アーナンダ尊者は、歩く瞑想をされた直後、預流果から一気に阿羅漢果の悟りに到達されたと記憶しております。
 私は、ヴィパッサナーにおいて、頭が活発に働いていないと、悟ることはできないのではないかと思っています。
こころざし
2015年08月07日 07:31
大地は確かに何をしても怒らないですよね。そして門柱があるとそこで入るべきもの・そうでないものを分ける機会を下さると思います。
濁りのない池のような心を持って、怒らず、そして入口(五蘊の色と受という意味になるでしょうか)を守れるように努めたいです。
たか坊
2016年10月23日 23:48
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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