113.114.115.生と滅とを見通して一日生きる方がまさる

ダンマパダ 第8 千の章 113.114.115.

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマー サンブダッサ
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


生と滅とを見ることもなく
百年生きながらえるより
生と滅とを見通して
一日生きる方がまさる

不死の境地を見ることもなく
百年生きながらえるより
不死の境地を見通して
一日生きる方がまさる

無上の法を見ることもなく
百年生きながらえるより
無上の法を見通して
一日生きる方がまさる


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

諸行無常を知らないで
百年生きるよりも
諸行無常を知って
一日生きる方がまさる  

涅槃の境地を知らないで
百年生きるよりも
涅槃の境地を知って
一日生きる方がまさる  

聖なる四真理を知らないで
百年生きるよりも
聖なる四真理を知って
一日生きる方がまさる


○子供のためのダンマパダ

すべての生き物は
生まれたら必ず死ぬものだと
理解できれば
生まれた価値がありますよ

生きる目的は
最高の人格者になることだと
理解できれば
生まれた価値がありますよ

お釈迦さまの教えは
最高に貴いと
理解できれば
生まれた価値がありますよ





○一口メモ

 今回は、三つの詩をいっしょに掲載しました。一部の単語だけが変わっているだけで、同じ言葉でできた詩です。113番は「生と滅と」、114番は「不死の境地」、115番は「無上の法」がキーワードです。超訳ではその意味を取って、それぞれ「諸行無常」、「涅槃の境地」、「聖なる四真理」と訳しました。

 それぞれの言葉の意味を本当に知ったならば、それらを知らずに百年生きるより優れていると述べられています。それぞれについて、簡単に調べて見ます。

 「消と滅と」「諸行無常」を理解して、受け入れられば、すべての悩みはなくなります。すべての悩みは、自分と自分の周りの事柄の変化を受け入れられない時、生じるものだからです。変化を受け入れられれば、悩みはなくなります。このことは自分で調べてみればわかります。すべての悩みがなくなった人はそれだけで、最高の境地です。

 「不死の境地」すなわち「涅槃の境地」とは人間の究極の生まれた目的です。涅槃の境地を知るとは人間の生きる目的を達成したのです。それがゴールですから、他に望むものはないのです。

 「最高の法」、超訳では「聖なる四真理」としました。1.苦聖諦、2.苦集聖諦、3.苦滅聖諦、4.苦滅道聖諦の四つの真理です。その意味は日本テーラワーダ仏教協会のホームページ又はこのブログ内の検索で調べて下さい。この真理を知れば、諸行無常を知り、涅槃の境地を体得することができるのです。

 「子供のためのダンマパダ」では「すべての生き物は生まれたら、必ず死ぬものだと理解できれば」と書きました。これはどうせ死ぬのだから、どうでもいいということでなく、生き物を大切にして、充実した生き方をすべきであることを教えるものです。そして、二番目、三番目に書いたように、生きる目的を理解できるようにしたいと思います。

 スマナサーラ長老の説法を学び、前回の「この詩から学ぶこと」を参考にして下さい。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

「生きることは爆弾遊びか」 ~無常を知るものは人生を知る ~
http://www.j-theravada.net/howa/howa43.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

百年も生滅知らずに生きるより 生滅知って一日生きよ
http://76263383.at.webry.info/200903/article_21.html


○パーリ語原文

113.
ヨー チャ ワッササタン ジーウェー
Yo   ca   vassasataṃ   jīve,
彼が 又   百年間    生きるとして
アパッサン ウダヤッバヤン
apassaṃ    udayabbayaṃ;
見ないで   消滅を
エーカーハン ジーウィタン セッヨー
Ekāhaṃ      jīvitaṃ    seyyo,
一日の      命が     より優る
パッサトー ウダヤッバヤン
passato    udayabbayaṃ.
見る者が   消滅を

114.
ヨー チャ ワッササタン ジーウェー
Yo   ca   vassasataṃ   jīve,
彼が 又   百年間    生きるとして
アパッサン アマタン パダン
apassaṃ   amataṃ  padaṃ;
見ないで  不死の  境地を
エーカーハン ジーウィタン セッヨー
Ekāhaṃ      jīvitaṃ    seyyo,
一日の      命が     より優る
パッサトー アマタン パサン
passato   amataṃ   padaṃ.
見る者が 不死の   境地を

115.
ヨー チャ ワッササタン ジーウェー
Yo   ca   vassasataṃ   jīve,
彼が 又   百年間    生きるとして
アパッサン ダンマムッタマン
apassaṃ   dhammamuttamaṃ;
見ないで  法を   最上の
エーカーハン ジーウィタン セッヨー
Ekāhaṃ      jīvitaṃ    seyyo,
一日の      命が     より優る
パッサトー ダンマムッタマン
passato    dhammamuttamaṃ.
見る者が   法を   最上の


○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)


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この記事へのコメント

名古屋人
2010年01月28日 21:36
日常生活で無常を感得することは、よくありますが、それがなかなか苦悩を無くすことにつながっていかない。修行が足らないと言われればそれまでですが。(^^:)
苦しい時に、無常だからまた、じきに楽になるだろうと思っても、苦しい時は、苦しみしか感じません。私の無常の理解が間違っているのでしょうか。
ワンギーサ
2010年01月28日 22:55
名古屋人さん、こんばんは。
無常だから、苦がいづれ楽に変わるだろうということではありません。苦しいのは、無常を受け入れてないからです。変化を嫌だと思っているからです。お腹がすいた時、お腹がすくのを嫌だと思っているからです。満腹から空腹になるのは当たり前と思えないからです。空腹になれば、食べればいいだけです。
2010年01月29日 04:12
ワンギーサさん、おはようございます。誰もが死ぬと一応知ってはいます。「誰もが「老眼」になる。それは避けられない」とメガネ屋さんから何回も聞いてはいました。しかし、いざ症状が現れると軽いショックを受けたのを覚えてます(笑)。つまり「変化」を受け入れなかったのが原因ですが、「変化」を受け入れてしまった現在は悩みはありません。「老眼」が進めば「老眼鏡」をかければいいだけです。問題は素直に納得出きるまで時間がかかったことです。その間、程度の差こそあれ「悩み、苦しみ」がありますから。それには、その時、その時の変化を受け入れるしかありません。冥想で克服(すべき課題)。老眼について言えば「誰もが老眼になり、そしてショックを受けるものだよ。皆ショックを受けるのたから心配するに値しない」などとメガネ屋さんが話してましたが、この考えは良くないと考えてます。「死」で苦しむのは当たり前。という発想と似ているからです。「悩み苦しみのファン」になっては決して「幸福」にはなれないでしょう。これも冥想で克服(すべき課題)。有難うございました。
ワンギーサ
2010年01月29日 07:29
新さん、おはようございます。
新さんの言いたいこととは少し違うかもしれませんが、名古屋人さんへの追加説明をかねて一言書きます。
「苦」と「苦しむこと」とは違います。「苦」はお釈迦さまの発見した偉大な真理です。変えられません。しかし、苦しむ必要はないのです。苦を受け入れて、それに最適な対応をすればいいだけなのです。「悩み苦しみのファン」になることではありません。
ぱん
2010年01月29日 08:21
ワンギーサさん、ブッダガヤの絵というか、イラストのようなものを描きました。ブログのトップページに飾っておきます。感想いただければ幸いです。
2010年01月29日 09:52
ワンギーサさん、少しというか全然違ってます。老眼になるのは事実ですが、その老眼になることとそれについて「悩む」こととを同列並べた、つまり両者を「当然」としたことへの皮肉表現です。「怒り」は人間の性。のように、悪感情を当たり前とするような状態を敢えて「悩み苦しみのファン」と造語しました。丁度、「無知」の話があったので、面白そうなので、「ファン、マニア」という造語で表現してみようかと思ったわけです。やはり、ノーマルな表現の方が無難かもしれませんね(^_^;)。有難うございました。
もくぎょ
2010年01月29日 18:16
ワンギーサ様、皆様こんばんは。「苦」について考えたことを話にしてみました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日はことのほか冷える夜。小さな庭を往ったり来たりする木魚の姿がある。先程から時折吹く寒風が、体のあちらこちらを突き刺すようであった・・・

もく(右足あげます・・運びます・・下ろします・・・)

そのとき、ふっと思うのである。木魚の足を運ばせるもの、それは苦の感覚でしかないのでは・・と。寒い夜を心が嫌がるのも苦の感覚なのか?

見ること、聴くこと、それも苦の感覚がつづくように思うのである。心が苦を嫌がり感覚をよそに移すがそこにもすぐに苦が生まれるのである。

木魚の周りはいつしか苦で囲まれていた。

もく「老師様。で、ではどうすれば?・・・」

木魚の足はいつしか氷で固まってしまったかのように止まっているのであった・・・
名古屋人
2010年01月29日 20:46
ワンギーサさん、ありがとうございました。そうでした、「苦」Dukkhaと「苦しみ」は、違うものでした。
スマナサーラ長老の「なぜ苦は偉大なる真理なのか」を読んでいながら忘れておりました。m(__)m
生きて感覚を感じている間は、「苦しい感じも楽な感じ」も、否応なく感じ続けなければなりません。それが厭だというのは、生命として存在する限りは、無理な話であると。もっとも、「楽」のみ感じ続けて生きることができたとしても、無意味で無価値で虚しいと。
CyberBaba
2010年01月29日 20:48
こんばんは

また細かい突っ込みで申し訳ありませんが、、、

> 苦しいのは、無常を受け入れてないからです。変化を嫌だと思っているからです。

これはスマナサーラ長老もよく言っておられることですね。しかしこれは正しくないと思います。よく観察すれば解りますが、人間は変化自体を嫌っているわけではありません。嫌なほうに変化することを嫌い、それを怖れているだけで、変化そのものを嫌っているわけではありません。良いほうに変化することは嬉しいのです。例えば眼がよくなったとか、子供が成長したとか。変化しないことは苦です。例えば子供がいつまでも成長しないことは嬉しいでしょうか?成長したら苦でしょうか?違います。変化を怖れる気持ちがあるのは確かですが、それは変化が好ましい方に変化するとは限らないからです。また、思い通りにならないから苦だというのも正しくありません。予期せぬ幸運はなによりも嬉しいのです。

まとめますと、人間には変化を怖れる気持ちもあるが、変化自体が苦ではない。また思い通りにならないことは通常は苦であるが、常に必ず苦とは限らない、となります。
ワンギーサ
2010年01月29日 21:06
CyberBabaさん、コメントありがとうございます。そうです。細かい突っ込みです。私と言いたいことと変わりません。ただ、喜ぶ変化もありますが、変化を苦しみ、悩みと感じる時は、その変化を嫌がっているのです。
こころざし
2015年08月11日 07:58
職場・同僚にやや精神が不安定な方が居ます。その人から「生きる目的や何が大事か分からない」との質問を頂きました。お釈迦様の教えを簡単にお伝えさせて頂きましたが、心の不安定さからかピンとこない様子でした。
焦らず・温かく接しながら・その方の幸いを願いつつ、また紹介させて頂こうと思います。
たか坊
2016年11月09日 03:19
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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