166.他者のために大事でも自己の目的を失うなかれ

ダンマパダ 第12 自己の章 166

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します

他者のために大事でも
自己の目的を失うなかれ
自己の目的をよく知って
自身の目的に専念すべし


(片山一良先生 訳)

○超訳の試み

他人の目的が重大であっても
自分の目的を捨ててはならない
自分の目的を熟知して
自分の目的に専心すべき


○子供のためのダンマパダ

お父さんやお母さんに頼まれても
自分の目的を捨ててはいけない
自分の目的が皆のためになると知ったなら
自分の目的に向かって邁進(まいしん)しよう





○一口メモ

 今日はやはり昨日、引用したスマナサーラの言葉の続きを引用します。多くの方のコメントを頂きましてありがとうございます。

 「仏教と脳科学」(サンガ)161ページの10行目から引用。

 その人はなかなか答えられずに黙っていました。それで私は、「正解を言います。あなたが勉強しないことで、社会の皆が困るのです。いいえ、社会の皆どころではありません。あなたが勉強しないことは、世界の皆に対して、大変な迷惑なのです。あなたは人類に迷惑をかける生き方を平気でしているということです」と言ったのです。
 その人は言っていることの意味がわからないと言ったので、さらに説明しました。
 「一人の人間が何かを学んで、一人前になって自分が仕事をして生活するというかたちで人類に貢献しているのです。たとえガソリンスタンドでバイトするということであっても、人々は助かっているのです。役に立つ仕事ができない大人になることは、社会に迷惑です。そのような人々を、社会は慈善事業のように助けてあげなくてはなりません。そのためにほかの人々は経済活動をして余分に金をつくらなければいけないのです。それが社会に対する迷惑でしょう。
 ですから、授業を受けて、難しい勉強を徹夜しながらやることは、自分だけのためだと思ってしまうのは、勘違いです。自分のためだけだと思っているから、嫌になったらやめたくなるのです。人が真面目に勉強するということは、人類に迷惑をかけないということであり、社会に何らかの貢献をすることであり、皆のために生きることでもあるのです。それを理解するならば、難しい勉強もやる気がでます。いろいろ嫌なことがあっても、それに足を引っ張られないように気をつけることもできるのです」
 そのように説明してあげました。

 以上引用終わり。

 スマナサーラ長老のこの説明は、今回の詩の理解にも大変役にたつことです。

 さて、今回の詩は「自分の目的と他人が自分に望む目的は異なる場合どのようにするか」に対するお釈迦さまが示された指針です。「他人の目的が重大であっても自分の目的を捨ててはならない」というものです。しかし、ここで注意する必要があります。「自分の目的」の意味です。自分かってな目的ではないのです。お釈迦さまは、人生に意味はないと仰っておられますから、人生には目的はないのです。しかし、人間が元気よく、明るく生きるためには目的を持っていた方がいいのです。それで、お釈迦さまは、人類に意義のある目的を示されました。ここでは結論しか述べられませんが、それは涅槃を目指すことです。涅槃を目指すという目的は最高な目的です。自分の目的を涅槃を目指すものにしたのならば、他のどのような目的にも優先されます。

 ここで始めの問題「自分の目的と他人が自分に望む目的は異なる場合どのようにするか」を再度考えると、涅槃を目指すというという生き方は、他人が自分に望む目的を受け容れても、実現可能であることも考えておく必要があります。具体的には、例えば親の望みと対立しなくとも解決できる場合が多いということです。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

「他人の為は『他人の為』か」 ~災難は『主義』が起こす~
http://www.j-theravada.net/howa/howa81.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

人のため自分の目的捨てるなよ 目的よく知り専心すべき
http://76263383.at.webry.info/200904/article_29.html


○パーリ語原文

166.
アッタダッタン パラッテーナ
Attadatthaṃ   paratthena,
自己の目的を 他者の目的が
バフナーピ  ナ   ハーパイェー
bahunāpi    na    hāpaye;
多くあっても なかれ 失う
アッタダッタマビンニャーヤ
Attadattham abhiññāya,
自己の目的を証知して
サダッタパストー        スィヤー
sadatthapasuto          siyā.
自己の目的を追求する者で あれ



○詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

幸い
2010年03月08日 21:58
スマナサーラ長老や小池龍之介師の著作を読んで必要以上に人に薦めたくなったり、自分の見解を人に見てもらいたいためにネットにいろいろと公開する人がいます。気持ちは良く分かりますが、人に進めるより、自説をネットで展開するより先ずは自分が悟りや出家を目指すために優先的に時間を費やすべきだと思います。そちらの方が結果的に周りも自分も成功すると思います。もし、ネットで公開する場合は【慢】や【見】に囚われていないか厳しく自分をチェックする必要があると思います。
大好き
2010年03月08日 22:22
いろんな思いがあるのですね

まさしく、これが、ここが、こころの勉強の場になります

僕の知ったことは唯一一つ

自分がしゃべることは、自分ができていないところ

自分のよいところが仮にあっても、自然ですから、気づかないということ

僕は、自分に対していってる言葉だ、と思っていつも

自分の言葉を見ています

生きとし生けるものが幸せでありますように

も当然自分にも行っているのです

死ねたらなー、とかって気持ちがなくならないので、いつも自分に言ってる言葉でもあります

生きとし生けるものが幸せでありますようにとせめて僕も仲間に入れてほしいんです

僕は、自分の幸せを願うことができない、傲慢な奴なんです

生きとし生けるものが幸せでありますように

幸い
2010年03月08日 23:11
すみません。私のコメントは少し挑戦的だったかもしれません。
というのは私自身私が指摘するような人物であったのですが、表現が難しいのですが淡々と原始仏教に向き合うスタイルの方がこころの成長が早いと実感しているのです。

大好きさんへ…スマナサーラ長老の『ブッダが教えた本当の優しさ』の【私が幸せでありますように】の解説を読んだ上で【私が幸せでありますように】を繰り返し念じてみて正しい自己愛を育てることが【生きとし生けるものが幸せでありますように】に繋がると思います。
2010年03月08日 23:37
一度過去に読みましたが

一か月ほど前より、少しずつ一文一文

読み返している最中でしたが、三、四日読んでませんでした

自然とこころが要求していたのでしょうかね。またそれを見抜かれた幸い様も、やはり何か通じるものがあるのでしょうかね

縁なって、どのような方もお会いしてると思ってます

決して怒りのこころを、持ち出さないように、私はいつも心がけていますが

その事で、話をそらしたりすることもあり、申し訳なく思っております

生きとし生けるものが幸せでありますように
高橋優太
2010年03月08日 23:50
ワンギーサ先生、皆様、こんばんは。
なるほど!!と思いました。勉強のやる気もおきましたし、何より成長して社会に貢献できる人間になることが今の僕の仕事だと思いました。冥想中、勉強中、怠け心が出てもこの説明を思い出せば勝てそうな気がします。
私が幸せでありますように!!
皆様が幸せでありますように!!
生きとし生けるものが幸せでありますように!!
幸い
2010年03月09日 00:15
大好きさんへ…表現は難しいですが私が幸せになることを許してあげることだと思います。
俗世間のスペックでは生きている価値がないと思える自分も幸せになってよいしクールに幸せになるべきなのです。
瞑想をしていない時も、頭の中の考え事→実感に移す。実感にしがみつく。実感に意識を集めている状態は高い崖で命綱につかまっている状態と考えてみてはいかがでしょうか?考え事に走ってしまうと命綱を離してしまい三毒の谷底にまっさかさまです。でも実感にしがみついていればしっかり命綱に掴まっていますから涅槃という頂きに向かって着実に登って行くことが出来ると思います。
2010年03月09日 05:28
ワンギーサさん、おはようございます。
地元の町会の役員改選が迫ってきました。
形骸化してますが、地域への貢献も一方で望まれてます。貢献する人を嫌がる人は誰もいません。
しかしながら、そんな小さな地域の町会長も「誰でもいい」というと皆反対します。これは面白いことです。人の考え方はバラバラのはずだからです。
では何を重視しているかといいえば、「真面目さ、差別しないこと、勤勉さ、嘘をつかない、町会のお金を間違っても盗まない等々」です。
実際はそのような人格者もいないのですが、本心では「道徳」を守ることを人に望んでいることの一例です。
すなくとも私は、嘘をつくことを人に期待しません。
怒りをぶつけられることも期待してません。

有難うございました。
おんがえし
2010年03月09日 07:45
 私は、前から気になっていることがあります。
 それは、貪瞋痴の「抑制」が悟りであると論じている大乗仏教のお坊様(原始仏教を学んでいる)や原始仏教の一流の学者の方々が沢山いらっしゃるということです。
 しかし、ブッダは、貪瞋痴の「消滅」を悟りとして説かれたのであって、貪瞋痴の「抑制」は悟りではないと思います。
 http://www.j-theravada.net/howa/howa127.htmlでスマナサーラ長老は、このようにおっしゃっておられます。
 有身見・疑・戒禁取・欲・怒り・色貪・無色貪・慢・悼挙・無明という十種類の枷があります。そのリストの中で、五番目が怒りです。悟りの第一ステージ、預流果で最初の三つの枷が消え、第二のステージ一来果で四と五の枷が弱くなる。第三のステージ不還果で四と五が消える。第四のステージ阿羅漢果で残り五つは消える。
kou
2010年03月09日 09:49
なるほど、私が勉強しないと社会が困るというのは、本当になるほどでした。
 失礼しました。
kou
2010年03月09日 09:56
失礼、kuと書くべきニックネームをkouと書き間違ってしまいました。
訂正ができないシステムでしたら、これと先の投稿を無視して下さい。
よろしくお願いします。
おんがえし
2010年03月09日 10:14
 http://gotami.j-theravada.net/2007/07/dhamma-10.htmlに「パパンチャを破る-禅の物語『無門関』にちなんで」というスマナサーラ長老の説法があります。
 私には、上の話に関連しているように思いますので、その法話の15分20秒あたりからをお聞きいただければ幸いに思います。
ワタナベ
2010年03月09日 16:38
お経のご紹介、いつもありがとうございます。
ダンマパダは韻文、偈文ではありますが、初期仏典の特徴の一つに「わかりやすさ、明解さ」の特徴があると思います。よく世間の教えでは、「他人のために自己を犠牲にするような話」が美徳とされているように思われます。しかしこの詩偈では、「そうではない事(例)」が語られています。このダンマパダ註釈書(北島泰観訳)にも自己の目的とは「預流道・果、一来道・果、不還道・果、阿羅漢道・果、涅槃を意味する」と書かれています。

僕が思いますに、「まず自分が先にしっかりしてしまえば、それ以降周りの生命に迷惑をかけることもないし、周りの生命にとっても自分が頼りになる存在となるであろうから、巡り巡ってそれが本当の意味で最終的に他の役に立つという事になるのではないか」と思われます。

他の中部経典の喩えに「溺れている人を助けるのに、自分が溺れていて(泥沼に浸かっていて)どうして他を救えようか?まず自分が涅槃(阿羅漢)に達して、それからが本当に人を導く事ができるのだ云々」というようなニュアンスの下りがあったと記憶しています。

全くそれは当たり前の話で、海で溺れている人を助けるのに、自分が泳げないで海に飛び込めば自分も溺れて二人とも死ぬことになると思います。

それと同じように、煩悩の海に溺れている人を助けるには、先ず自分が煩悩の海に溺れなくなってからでないと一緒に沈んでしまうと思われます。

釈尊も悟る以前の菩薩の時には、禅定の喜楽やそれ以上の勝れたものに到達するまでは、欲に誘惑されてしまった者であったと述懐されているようです。。。(中部14 小苦蘊経)

ですので普通の人、普通の宗教では、「煩悩の海、欲の海に溺れる事が良い事」だと思っているので。。。大変なんでしょうね。。。僕も溺れていますが(^^;。
おんがえし
2010年03月09日 18:24
 スマナサーラ長老は、数多くの著作を世に出され、また、多数回講演を行っておられます。
 しかし、私が知る限り、印税(=著作権料)、講演料を一切受け取っておられません。
 勘違いされている方も多いのではないかと思い書かせて頂きました。
まさこ
2010年03月09日 18:52
長老の説法読ませていただきました。
私は、20歳の時に特別養護老人ホームに就職し、25歳で腰痛、坐骨神経痛、28歳で精神的にまいってしまい、一度仕事を辞めました。また、復活して働いているのですが、自分をいい状態にたもっておかないと、他の人のお世話はできません。今日の記事、考えさせられました。
こころざし
2015年08月24日 07:47
本文を拝見し、涅槃を目標にすると日常の様々な問題等々はもうそれを超えてしまうように思いました。
悟り・涅槃を目指しながら、日常の事を念を入れて乗り切って参りたいです。
たか坊
2017年02月03日 23:07
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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