201.悟った人は勝敗を捨て気楽に生きる

ダンマパダ 第15 安楽の章 201

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すべての生命の幸せを願い、教えを説かれたお釈迦様の祝祭記念日
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ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


勝利は怨みを引き起こし
敗れた者は苦しみに臥す
勝敗を捨て寂静に
入った者は安楽に臥す


(片山一良先生 訳)


○日常語訳

勝者は恨まれる
敗者は悔しい
悟った人は勝敗を捨て
気楽に生きる


○子供のためのダンマパダ

勝てばうらまれるし
負ければくやしい
だから賢い人は
戦わずに仲良く生きる





○一口メモ

 今回の詩も前回同様に「気楽に(安楽)に生きよう」というお釈迦様の提案に、沿ったものです。
気楽に生きられないのは、これまで、恨み、悩み、欲などにこだわっているからと述べて来ました。
今回の詩では、勝負という点から見ているのです。恨みは勝負で現れます。また悩みも勝負で現れます。勝負に負ければ、恨みや悩みが現れるのです。

 世の中は勝ち負け、競争の原理で成り立っているのでしょうか。そのような見方で世界を見るとそのようにも見えます。多くの人々は世の中で生きて行くためには、競争に勝たなければならない、負ければ滅びると思っています。自然界でも、人間の社会でも、強いものが生き残り、弱く負けたものは生きていけないということは本当でしょうか。

 この見方、このような考え方は、物事のある一断面、一側面だけを取り出して、ある一面だけを強調した考え方だと思います。事実はそのようになってないと思います。世界や社会はすべてつながりを持って、支えあって成立していると考える方が事実に近いのではないでしょうか。この問題をいろいろな面から検討することは、ここでは手に余るのですが、競争原理で支配されているという考え方と、協力原理で成り立っているという考え方があり、どちらの原理を支持し、どちらの原理に従って生きていこうかという選択は私たち一人ひとりができると思います。

 現在の世の中では、競争原理に従って生きている人々の方が多いと思います。そのため、世の中には恨みや悩みが多いのです。しかし、協力原理で生きることはできます。そのような生き方をする人々には恨みはなく、悩みもなく生きることができるのだと思います。

 世界は同じものは存在しませんので、強いものも、弱いものもあります。しかし、強いものが弱いものに勝って、生きのびているわけではありません。すべて無常ですから、強いものもいづれは弱くなって滅びます。強いから生き残っているわけではないのです。恐竜は滅びましたが、小さな生物は生きのびています。競争原理で世界は成り立っているのではなく、大きい生命も小さい生命もそれなりの役割があり、お互いに協力・共存しているのです。競争でなく協力で生きることが、安楽(気楽)に生きる方法なのです。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

敗退に気づかない勝利者~幸福を逃がす、競争の原理~
 Victory and defeat, motive of failures
http://www.j-theravada.net/howa/howa109.html

○前回までのこの詩に関するブログ記事

勝ち敗けを超越すれば見えてくる真の幸せそこにはないと
http://76263383.at.webry.info/200905/article_25.html

勝敗を捨てる
http://76263383.at.webry.info/200807/article_12.html


○パーリ語原文

201.
ジャヤン ウェーラン パサワティ
Jayaṃ   veraṃ  pasavati,
勝利者  怨み  生む
ドゥッカン セーティ パラージトー
dukkhaṃ  seti  parājito;
苦に    臥す 敗者は
ウパサントー スカン セーティ
Upasanto  sukhaṃ seti,
静寂の者  楽に  臥す
ヒトゥワー ジャヤパラージャヤン
hitvā   jayaparājayaṃ.
捨てて 勝利と敗北を

〇詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年04月04日 04:24
ワンギーサさん、おはようございます。

「イチロー選手とアインシュタイン博士とどちらが優れているか?」という問いは極めて不毛で滑稽ですが(笑)、同じスポーツ選手でもイチロー選手とサッカー選手を比べても、勝ち負けになりません。

相撲でも取ってみれば、もしかして勝負がつくかもしれません(笑)。

勝負は同じ土俵にのったとき初めて成立するものでしょう。

しかし、アインシュタインとニュートンを同じ土俵にのせて比較するのもどうかと思います。時代が違います。ニュートン力学の前提なしに相対論はなかったでしょうし、20世紀にニュートンが生きていたら?の問いは思考の空回りです。

昨年はイチロー選手が首位打者をとりそこねました。
しかし、イチロー選手の打ったボールはイチローにしか打てません。その時の相手の守備力もその都度異なります。同じ現象は起こり得ない。イチロー選手はイチロー選手でしかありません。

競争原理の見方は「視野」を狭くします。ダンマパダに関する知識では、私もイチロー選手に負けない(このブログなど御覧になっていたら、もろくも崩れなすが)自信がありますが、「知識」という土俵にのせることで競争は成立しても、イチロー選手から学べる範囲を狭めてしまいます。

イチロー選手のほうが、私などより遥かに仏教的に生きてるかもしれないのです。

競争原理の発想、妄想は、「学び」という人間特有の役割に損失を与えているように思います。

有難うございました。
2010年04月04日 05:54
後半で、イチロー選手と比較して少し冗談ぽく書きましたが、問題は「競争意識」にあるのではないだろうか。ということです。

それぞれに固有の役割があり、その役割をはたしていても「競争意識」があっては、表面上は競争はしてなくとも、競争心で生きてると思います。

今回の例で言えば、「協力原理」で生きようとした場合、「競争原理こそ生き甲斐」で生きてる人に対しても、対抗意識、競争意識をもってはいけないのだと思います。

嫉妬心の裏返しとしての共存は偽善ではないか、と思います。

有難うございました。
あっきん
2010年04月04日 10:09
  おはようございます。
”ウサギとかめ”の話から学ぶ。
うさぎさんは足がはやいのを自慢して、途中で昼寝をして怠けてしまいました。
かめさんは根気よくコツコツとがんばりました。
結果は、後から付いてきますが皆さん知ってますよね。
この話、競争は抜きとしてAタイプ、Bタイプと見るとまた面白いかもね。
生きとし生けるものは幸せでありますように。
おんがえし
2010年04月04日 10:52
 昨日のセンスデータについてもう少し書いてみます。
 センスデータ理論を徹底するとこうなると思います。
 たとえば、昨日の黄色の本の例ですと、太陽光の下では、目に黄色が触れる、月光の下では目に白色が触れる、真上からみると長方形が触れる、角度をずらすと、形の崩れた四角形が触れる、こうして瞬間瞬間、特定の条件の下、「色・形」が目に触れる。
 しかし、決して「本」という実体は目に触れることはできない。それは本の裏側が目に触れないことからも明らかである。
 だが、瞬間瞬間触れた「色・形」が、思考で合成されて「黄色い本」という実体が思考の中で疑いのない存在となる。
 このようになると思います。
 センスデータ論では、たとえば、身体に触れるのも、「本」という実体ではありません。強く押したか弱く押したかで固さは違うと思いますし、また、氷点下で触る場合と、灼熱下で触る場合で熱さも違うと思います。
 こうした固さ・熱さがセンスデータなのであって、「本」という実体に触れることはできないということになると思います。
 
 このようなセンスデータ論をブッダの教えと似ているとか同じとかいう方もいらっしゃるかもしれません。
 しかし、それはブッダの教えをそのレベルと頭の中で考えていることになり、無意識にブッダの教えを侮辱することになると思います。このようなことはスマナサーラ長老も説法の中でおっしゃられていたと思います。
 ブッダの教えとセンスデータ論の違いは昨日述べましたが、他にもあります。
 ですので、ブッダ、賢者の意見と同じであるとか、似ていると発言される場合には、それは、ブッダ、賢者を侮辱する危険があることに十分に注意していただきたいと思います。
ワンギーサ
2010年04月04日 17:37
皆さん、コメントありがとうございます。

あっきんさんのコメントから、考えました。
「ウサギとカメ」のお話は、たしかに競争にしなくとも面白いかも知れませんね。

ウサギとカメが山に登ることにして、ウサギは早いから、さきに登ったのですが、早すぎたので途中で昼寝をしました。カメはゆっくり登りましたが、休まなかったので先について、ウサギがくるのを待ちました。
ウサギは頭かきかき、「少し寝坊したよ。」といいました。ちょうど、お昼になったので、一緒に、昼ごはんを食べました。

以上です。面白くないかな。もく魚さんに作りなおしてほしいですね。
おんがえし
2010年04月04日 17:49
 スマナサーラ長老は、中道を超越道とおっしゃっておられると思います(中道は中庸とはまったく意味が違うと思います)。
 そこにもuttari manussa dhammaの精神がみてとれるように思います。
 人々が争うのは、人間の認識範囲を超越した真理を知らないからだと思います。
 スマナサーラ長老の喩えですが、地球が丸いことに争いはありません。それが科学的真理だからです。
 ブッダの教えに説かれた超越した真理を確かめれば、争いはなくなるのだと思います。
 争いが起こるのは、真理を確かめずに信仰する人々だと思います。信仰するというのは背後に疑いがあるからこそ信じるという意思が必要となるのだと思います。
 確かめることなく、無理やり信じるのですから争いも起こるのだと思います。
 信仰ではなく超越した真理を確かめることに励むのがブッダの教えだと思います。
 「人間なのに人間を超えるなんて笑っちゃいますよ」とおっしゃる人々には、中部経典99「スバ経」のお釈迦様の見事な説法を調べていただければと思います。
もく魚
2010年04月04日 21:59
ワンギーサさま、こんばんは。
ウサギとカメ、もく魚が考えるとこうなります。(^^;;
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もく「さあ、あのゴールまでみんなでヴィパッサナーめいそうで進みますよ。しゅっ~ぱ~つ!」

カメ「はーい」トコトコ・・・
兎 「はーい」ぴょん、ぴょん・・・


もく「みぎ足あげます、はこびます、おろします・・・しっかり頭のなかで実況ちゅうけいしてくださいね~~」

順調に進むもく魚。うしろが気になり振り返ると、なんとうさぎとカメは大変なことになっていた。四本足のカメは歩くとき右前足と左後ろ足を同時に出すので実況中継が複雑だったのだ。

カメ「右前足左後ろ足同時にあげて、同時にはこんで・・おろして、え~~とそして?・・」
・・・カメはほとんど進んでいなかった。

うさぎはもっとひどかった。ジャンプしてすぐに両足が前に着地してしまうのだ!そのため実況中継が全く間に合わなかった。

兎「後ろ右足、左足同時あげます、あっあれ~~?もっもう右足左足ついて・・」
うさぎは自分の周りをぐるぐる回っているだけだった・・。

もく「こ、これはいちど長老さまから初心者指導をうけなければ;;;」

翌日、精舎にうさぎとカメを両手にかかえたもく魚の姿があった。おしまい
ワンギーサ
2010年04月04日 22:48
もく魚さん。
ありがとうございます。
さすがですね。
面白い。
でも、話を完結させてもらいたいです。
長老さまから、
どのように指導されたのか気になりますよ。
あっきん
2010年04月04日 22:58
 もく魚さんのお話かわいい~です。(#^.^#)
 慢心を作らず、一歩一歩サティを入れてウサギさんとカメさん山頂まで着くといいな。
チヨ
2010年04月05日 00:41
こんにちは。もく魚さんのお話、おもしろいです。それと、その続きが気になります。
もく魚
2010年04月05日 21:25
↑つづきを考えてみました(^^;;
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここは精舎の中。本堂にぎっしり人が集まり静かな熱気。そして長老様登場。

長老「きょう始めて参加する人は・・?」
すぐにカメとウサギが手をあげる。

カ「カメ男です。よろしくお願いします」
兎「ぴょん太です。お願いします」

この模様をtwitterでつぶやきつづける佐藤さん・・・

佐「仏教史上初となる出来事です」
すぐに届き始めるつぶやきの数々・・・。
ツ1「カメに瞑想できるんですか??」
ツ2「無理です絶対無理!!」etc・・・

長老「では座る瞑想です。腰から上の力を抜いて・・・」

だが全身甲羅で覆われているカメはカチカチで力が抜けない。汗だくである。
一方ウサギは誰よりも耳が鋭いため周りのあらゆる音に「音、音、音音音音音音音・・」と気づきを入れている。

カメ男はついに仰向けにひっくり返り手足をばたつかせる。パタパタパタ・・・
ぴょん太はついに目を回す。クルクルクル

それでも姿勢を立て直し懸命に瞑想を続けるカメ男とぴょん太。その姿に応援のつぶやきが続々届き始める。

あっきんさん
  「カメ男くんがんばって~~」
チヨさん
  「ふたりから勇気をもらいました」
ワンギーサ先生
  「ダンマパダの良いお手本ですね」

長老「では慈悲の瞑想です。生きとし生けるものが~~♪・・」
このときほど会場のみんながウサギとカメのことを想い、慈悲の念を送ったことはないであろう。

※全てフィクションです。^^;;;
あっきん
2010年04月05日 22:43
(*^v^*)ひゃひゃひゃ~ もく魚さんの話うける。
なにげにリアル的だよね。
猫のナミちゃんはどうしたんだろうか。
全ての生命に通じる仏教の教えですね。
こころざし
2015年09月02日 07:48
今朝、日本人有名テニスプレーヤーが国際大会で一回戦負けしたとのニュースが家庭で話題になっていました。玉を打ちあう競技でそこまで注目されるのを興味深く感じました。
スポーツの世界は勝ててるうちは注目されますが、勝てなくなると途端に過去の人物に成るように思います。無常ですので、とも思いますが、何かむなしい印象も感じます。
僕は、心の成長するような生き方に注目し・そして大事に実践して参りたいです。
たか坊
2017年04月06日 11:31
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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