266.267.他に食べ物を乞うだけでそれによって比丘とはならず

ダンマパダ 第19 法住者の章 266、267

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


他に食べ物を乞うだけで
それによって比丘とはならず
不正な法を受持するならば
ただそれだけで比丘とならず

ここにおいて梵行(ぼんぎょう)をそなえ
善と悪を除きさり
思慮し、世界を行くならば
かれこそ比丘と称される


(片山一良先生 訳)


○日常語訳

托鉢するだけで
托鉢僧にはなれない
不浄な行為をする限り
彼は托鉢僧にはなれない

善も悪も離れて
心を清める修行をし
善悪を究め世間を歩む
彼は托鉢僧と呼ばれる


○子供のためのダンマパダ

洋服売る人は洋服屋さん
野菜うる人は八百屋さん
家を作る人は大工さん
お坊さんは?

お経をあげて
お布施をもらう人ではないよ
心をきれいにして
幸せになる方法を教える人





○一口メモ

 パーリ語でビクとは、食を乞う人という意味がもとの意味ですが、お釈迦さまが自分の弟子達をビクと呼ぶことにしたのです。「仏弟子たちは、何としてでも生きていきたいという気持ちは毛頭ないのです。何としてでも死ぬ前に一切の煩悩をなくし、完全たる解脱に達するのだと、覚悟を決めているのです。生活の心配は二の次なのです。」(スマナサーラ長老の御説法より)

 ですから、乞食をすれば比丘ではないのです。大切なことは、「善も悪も離れて、心を清める修行をし、善悪を究め世間を歩む」ことなのです。

 ここで、一つだけ「善も悪も離れて」の説明をしておきましょう。よく禅の世界などで、善悪はないなどと言う言葉を言います。それはたしかに、事実をありのままに見られる人、自我を離れてものを見られる人はそのように言ってもいいのかも知れませんが、凡夫はそのようにはいきません。事実を事実としてみることはできず、スマナサーラ長老の言葉を借りれば、事実をすべて捏造して見ているのですから、お釈迦さまの言われる、悪いことは行わず、善いことを行うようにした方がよいのです。

 しかし、事実をありのままに見ようとする、捏造を克服しようとする修行者にとっては、悪行為を止めることは当然ですが、善行をして功徳を積もうとする思いは一つのこだわりですのです。それも克服しようとするのです。ですから、ここでは「善も悪も離れて」となるのです。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法

*「托鉢は乞食行ではありません」~真理に達することで比丘になる~
 Liberate your mind to become a genuine monk
http://www.j-theravada.net/howa/howa155.html

○前回までのこの詩に関するブログ記事

*托鉢で托鉢僧になれないぞ不浄の人は托鉢僧でない
http://76263383.at.webry.info/200907/article_6.html

*托鉢僧と言われる者は梵行をなし慎重に
http://76263383.at.webry.info/200808/article_21.html


○パーリ語原文

266.
ナ テーナ ビック ホーティ
Na   tena     bhikkhu  hoti,
ない それにより 比丘で  (ある)
ヤーワター ビッカテー パレー
yāvatā     bhikkhate  pare;
それだけで 食を乞う  他人に
ウィッサン ダンマン サマーダーヤ
Vissaṃ  dhammaṃ  samādāya,
不正な  法を    受持するならば
ビック  ホーティ ナ ターワター
bhikkhu  hoti  na  tāvatā.
比丘に  なら ない それだけで

267.
ヨーダ プンニャンチャ パーパンチャ
Yodha       puññañca  pāpañca,
所の者はここで 功徳(善)と   悪を
バーヘートゥワー ブラフマチャリヤワー
bāhetvā   brahmacariyavā ;
拒否して  梵行ある者は
サンカーヤ ローケー チャラティ
Saṅkhāya  loke  carati,
究めて   世を  行く
サ ウェー ビックーティ
sa   ve   bhikkhūti  vuccati.
彼は 実に 比丘と  言われる

〇詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)


================================
~~~~~お 知 ら せ~~~~~

◎今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』バナーのクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。一日一回お願いします。
================================


この記事へのコメント

2010年05月17日 03:48
ワンギーサさん、おはようございます。

ダンマパダ183
「いかなる悪も行わず

もっぱら善を完成し

自己の心を浄化する

これが諸仏の教えなり」。



 今日の詩と比較するために蒼氓さんのブログでも紹介されていた「パーリ仏教辞典」(春秋社)を調べてみました。

 訳語では「善、功徳」という似たものがありますが、ダンマパダ183で善と訳されてる「kusala」は「巧みな、~に明るい(熟知している)」という意味も書かれてます。


 今日の「punna」(パーリ
は出ません)の訳語は「福、福徳、善、功徳」となってます。

 辞書の例文を読むと「punna」は、来世で善果を願うような意味と、輪廻に赴かせる(避けるべき)という二つの意味で御説法されているような印象があります。あくまで、私の理解にすぎませんが(^-^;)。

 対して、「kusala」の方は、悟りへ至る善行に通じている。というニュアンスを受けます。これもあくまで私の理解です。

  不放逸に心がけ、善行する際もよく心を観察することを怠らないよう注意したいと思います。


 実は、「この功徳が悟りへつながるように」と願うことでいいのかな?と一瞬思いましたが、それも一種のこだわりであると考えたからです。

そのへんはいかがなものでしょうか?


有難うございました。
チューラパンタカ
2010年05月17日 06:16
おはようございます

洋服を売って、相手の方が幸せになるかい

野菜を売って、相手が幸せになるかい

家を作って、相手が幸せになるかい


幸せになるんだよ

相手に、「自分も何かしなければ」、のこころが生まれたらね

僕は知ってるよ、慈しみのこころを持って行動することで、そのようになることを、そして、他に対して何かしてあげたくなったら、自分のこころが成長しなくちゃいけないこともわかるよ、

慈悲の冥想、ヴィパッサナー冥想、教えて頂き有難う御座います

本日も、仏法に対する、スマナサーラ長老、ワンギーサ比丘のお話を、読ませていただきました

有難う御座います

ワンギーサ
2010年05月17日 08:24
新さん、チューラパンタカさん、おはようございます。

新さんの疑問にたいして。
「悟りたいと思ったら、悟れない。」とはよく言われることです。
悟りたいと思うのは自我です。自我が悟りを妨げているのです。ですから、悟りたいと思ったら悟れないのです。自我を消せば、悟りはそこにあるのではないのでしょうか。
自我は思考(感覚)が作り出すものなので、自我を消せばいいのです。自我を消すためには、思考を止めればいいのです。実況中継で思考が止まります。そうすると自我がなくなります。と私は思っています。
願う事柄が善い事であろうとも、願うことも自我が行うことです。
2010年05月17日 09:25
ワンギーサさん、御指導有難うございました。

願うことが善ことであっても、願うことも所詮は自我なんですね。

大変参考になりました。淡々と実況中継をしてみます。

有難うございました。
ぱん
2010年05月17日 11:40
ワンギーサさん。私も悟りたいと思っていたので、今回のコメントは参考になりました。悟りに対して、しがみつきたい、執着したいと、考えていました。ところが、それでは悟りから遠ざかる。悟りにしがみつこうとするな、観察だというのは、仰るとおりだと思います。スマナサーラ長老が、瞑想は魚に対して歩け、歩けというようなものだと仰っていましたが、きつい作業だと思います。
チューラパンタカ
2010年05月17日 21:07
こんばんは

新さんの、言葉、態度、姿勢、等を、ブログにてですが、拝見しておりました

五戒、八正道、此の事柄を、実践しようと、チャレンジされているように受け取れました

そして、確かに成長されているように感じました

私も、取り組んでみます

五戒、八正道に

新さん、ワンギーサ比丘、よろしくお願いします

スマナサーラ長老の、ご説法も読ませていただきます

本日よりよろしくお願いします

前は親からもらった名前を名乗ってました

しかし、今も、これからも、チューラパンタカです

幸せでありますように
2010年05月17日 22:36
本日の子供のためのダンマパダで、
「お坊さんは?
お経をあげて
お布施をもらう人ではないよ
心をきれいにして
幸せになる方法を教える人」

で、あすかさんは
お坊様って何する人?
「そっか、お坊様って
 幸せの先生なんだ!」
とおっしゃっていました。なるほどと僕も思いました。(^^。本来仏教とは、子供から大人まで、(動物までもが←羊飼いが強引にどうしても川を渡らすことが出来なかった羊たちを、お釈迦様が母羊の(溺れて、はぐれて川を渡れないかもしれない)子羊に対する心配を瞬時に察して、お釈迦様が子羊を抱えて川を渡るお話etc)、「その場で」「話を聞いた瞬間」から心が楽しくなる、安らぐ教えだったんですね。だから「宗教団体」にわざわざ入信する必要もないんですね。だって入る前に教えを聞いて「しあわせ」になっているんだから。。。(笑)親子で、家族で、安心して、「聞ける教え」が今後とも望まれます。とくに「子供のためのダンマパダ」がこれからも楽しみです。いつもありがとうございますm( )m
2010年05月18日 09:23
「気づき」は私の師匠(?!)
こと、6歳の娘のおかげ。^^
日々いろいろ学ばせてもらっております。

いい言葉との出会いは
「団体」に全財産寄付なんかしなくても
今ここですぐ幸せになれますね。
(実践は難し。^^;)
こころざし
2015年09月15日 08:40
日常の中で、善行をして功徳を積もうとする思いを持つ事は姿勢として良いと思いますが、いざそのような場面で「これをしたら功徳が得られて・・」等と○○ゲット!みたいな思考に容易になりかねない、落とし穴の様な印象も感じています。そのような思考は捨てて→落とし穴に落ちないように注意したいです。

この記事へのトラックバック