このからだ 不浄と見て 暮らす人 感覚守って 悪魔に負けぬ(8)

8.このからだ 不浄と見て 暮らす人 感覚守って 悪魔に負けぬ


アスバーヌパッスィン     ウィハランタン 
Asubhānupassiṃ        viharantaṃ,
(身体を)汚いものと見て    暮らしている

インドゥリイェース  スサンウタン
indriyesu       susaṃvutaṃ;
感覚において     制御して  

ボージャナンヒ  チャ マッタンニュン 
Bhojanamhi    ca   mattaññuṃ,
食物において   また  適量を知り

サッダン  アーラッダウィーリヤン
saddhaṃ   āraddhavīriyaṃ;
信があり   精進を起こす

タン ウェー  ナッパサハティ マーロー 
Taṃ  ve    nappasahati   māro,   
彼を 実は   征服しない   悪魔は
  
ワートー  セーランワ   パッバタン
vāto     selaṃ’va    pabbataṃ.
風が    岩の ように   山を  (倒せない)


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200901/article_4.html
http://76263383.at.webry.info/200911/article_7.html


○一口メモ
この詩は、昨日の7番の詩と同様のことを教えているのだが、表現は逆だ。
パーリ語の詩では、省略されている言葉があるので、それを補わないければ、意味が分からない。カッコの中の言葉は補う言葉だ。
汚いもの、不浄なものと見るべきものは身体なのだ。身体を不浄と見ると、身体を何よりも大切だと価値を置かなくなる。身体に価値を置かなければ、見たい、聞きたい、食べたいなどと欲に支配されることが少なくなってくる。それはすなわち、欲の象徴である悪魔に支配されなくなることだ。パーリ語の詩の最後の行は「風が岩の山を倒さないように」という意味になる。短歌では残念ながら表現できなかった。


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)が幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますよう
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

カエルくん
2012年03月15日 16:11
ワンギーサ先生こんにちは。
今日から「食事の適量を知る」ための努力を始めてみました。(千里の道も一歩から、の気持ちです)
すると、目の前の食べ物を食べたい一心で心があちこち動きまわることに気づきました。まるで餌につられてウロウロする動物のように…。
食事の適量を知ることは、難しいことなのだなあ、というのが1日目の感想です。
2012年03月15日 21:41
この偈のパーリ語原文、単語を拝見してみますと、仏教の実践に必要な項目が全部入っているような気がして、改めて驚きました。
あすか
2012年05月07日 08:09
体も永遠でない、衰えゆく借り物。
快感は永遠でないことを思い出せば
その為に多大なエネルギーを使うことが
得策かどうかがわかります。

とはいえ、仏道を実践していく上で
この体や心を使わざるをえないのも
まぎれもない事実。飾る必要はなくとも
大事に取り扱うことと、
きちんとしたお手入れは必要ですね。

食事はなまじ快感がともなう上に、
目や耳などに触れる他の欲のように、
触れない環境、というわけにもいかず、
必ず毎日必要という点が難しいですね。

それでも毎回、食事の前と後に
下記のことを確認して
欲に負けないよう努力しています。

確認
食事をとるに値することができたか。
いただく命とかかわった方に感謝。
快楽のためでなく心と体の維持、
精進のため必要。

これは日本仏道のお坊様に
おしえていただきました。
誰からということではなく
善いことはどんどん
とりいれていくつもりです。
こころざし
2015年10月11日 09:33
自分の体が尊いと思うと→その尊いものにつり合うような衣食住等々、高慢の方向に自分がいってしまうように思います。体を不浄とみると、そのような高慢は防げるように感じます(実際に体を観察すると、とても清浄とは言えないと思います)
体に価値観を置いた生き方をしないように戒めたいです。