香りない 花があるように 実践ない ほとけの教えは 教えではない(51)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ヤターピ  ルチラン   プッパン
Yathāpi   ruciraṃ    pupphaṃ,
ように   光かがやく  花は

ワンナワンタン   アガンダカン
vaṇṇavantaṃ    agandhakaṃ;
美しい       香りのない

エーワン    スバースィター  ワーチャー
Evaṃ     subhāsitā     vācā,
そのように  善く説かれた  言葉も

アパラー   ホーティ  アクッバトー
aphalā     hoti     akubbato.
果実がない  (ある)   実践しない者には


○直訳
光かがやく美しい(でも)
香りのない花が(ある)ように
そのように、善く説かれた言葉も
実践しない者には果実がない。

○一口メモ
今回の詩は仏教における実践の重要性を説いたものです。
少し理屈っぽくなりますが、この詩で述べられている花の例えと仏教の関係を明確にしておきます。
光かがやく、美しい=善く説かれた
香りのない    =実践しない
花        =言葉
果実がない    =(仏教ではない)

「果実がない=仏教ではない」について、疑問を持った方もおられると思います。「果実がない=解脱がない」と考えても間違いとは言えませんが、それはブッダの真意ではないと思います。
仏教はいつも実践が伴って仏教なのです。礼拝で毎日唱える「法の六徳」の中の言葉「アカーリコ」は、「非時的の、即時の」すなわち、結果が即時的であるという意味です。
仏教は実践が伴って即結果があるのが仏教なのです。

私の敬愛する陽明学研究家の林田明大先生は、掃除について次のような説明をされています。

「『掃除をした。だからきれいになった。』この言い方の背景には、掃除をした、その結果、きれいになった、という二段階に分ける考え方があります。つまり、プロセスと結果を別々のものと分けて考えるのですが、この考え方が違います。『掃除すること』と『きれいになった』こととは、別々のことではありません。掃除をした、だからきれいになった、ではなく、掃除をしているその瞬間にきれいになっているのです。つまり、掃除という作業が先で、きれいになるが後ではなく、掃除することと、きれいになることとはもともとひとつのものであり、同時進行なのです。そこには前後はないのです。」
(林田明大著「志士の流儀」(教育評論社)p192~193から引用)

少し、長く引用しましたが、仏教は掃除と似ています。仏教は心をきれいにする掃除なのです。仏教は「心を清らかにする実践が伴って即結果のあるもの」が仏教だということを言いたかったのです。そうでなければ仏教とはいえません。ですから、説法を聞いて、即心がきれいになって仏教です。瞑想についても、瞑想をして、だんだん何かを理解して、結果を出すと言うものでなく、瞑想している瞬間、瞬間、心がきれいにするものだということを理解してほしいと思います。


「香りない 花があるように 実践ない ほとけの教えは 教えではない」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200902/article_3.html
http://76263383.at.webry.info/200912/article_7.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

カエルくん
2012年04月27日 06:26
おはようございます。
日々の雑事に流されてしまわないように、と思って始めたコメントの書き込みですが、相変わらず日常のあれこれにとらわれている毎日です。
今日の詩は耳が痛いです。
以前先生に「そういう詩こそあなたに必用なのですよ」と諭していただきました。繰り返し読んで心にとどめたいと思います。
ささ
2012年04月27日 09:22
掃除の引用と、観念を実践=事実で打ち破れ…とのお話になるほどと、自分にとってまた新たな発見でした。
瞑想実践の励みになります。
ありがとうございました。
1972/10/26出生者
2012年04月27日 10:34
実践とは、人との関わりと感じてしまいました。

黙って座っていても、姿形は同じに見えても、

放つものは違っているようにも思いました。
林田明大
2012年04月27日 13:15
 ご紹介下さり、ありがとうございます。こんな私でも、年齢を重ねると、短気だったはずの私がどこかに居なくなって(苦笑)、偉そうに年若の人にアドヴァイスをするようになっております(苦笑)。ですが、本当に、かつての私のようなくそまじめで頑固な人と出会って、「そういえば、私も以前は、彼のようだったなぁ」などと思いながら、私の思い(気付き)を届けようと、工夫に努めているところです。
 お久しぶりですね。また、こうして拝読させて頂くのが楽しみになりました。老婆(私は老爺ですが)心ながら(笑)、上記、文中に「プロセスと結果を別々のもと分けて考えるのですが」とありますが、「の」が抜けているのでは、と思いました。
ワンギーサ
2012年04月27日 13:26
林田明大先生、コメントありがとうございます。
御指摘の「の」は早速、訂正致します。
今後とも、よろしくお願いします。
あすか
2012年04月27日 21:36
なるほど掃除と仏道ですか。
具体的な物を手放したときと
見や欲、怒を手放したときの感覚が
似ているなと感じることはあります。

「修行を続けているといつか
心がきれいになる」のではなく
「今ここで清らかになれる」
とはまさに幸せの道ですね。

せっかく清らかになっても
すぐそうでない心にぶれてしまうので
根気強くサティと慈悲の瞑想に戻ります。

今夜はテレビやネットをおやすみして
寝る前も瞑想に取り組んでみます。
こころざし
2015年10月25日 12:07
私事ですが、教えて頂いて知識としてそれを得た後、自分なりに実行する時にその内容を言葉でまず思い浮かべてからやろうとする自分がいました。
ですが、だんだん経験しているうちに、言葉を浮かべなくても出来る様な印象を持つようになりました。
どんどん実践して、そして教えて頂いた事が智慧になるように精進したいです。