千金を 百年供養 するよりも 克己の人への 一回が優る(106)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


マーセー  マーセー  サハッセーナ
Māse     māse     sahassena,
月に     月に    千(回、金)

ヨー  ヤジェータ   サタン  サマン
yo    yajetha     sataṃ   samaṃ;
彼が  供養しても  百     年

エーカンチャ    バーウィタッターナン
Ekañca        bhāvitattānaṃ,
一人を も     修した者 自己を 

ムフッタマピ     プージャイェー
muhuttamapi     pūjaye;
寸時でも       供養するならば

サーイェーワ   プージャナー   セッヨー
Sāyeva       pūjanā       seyyo,
それはまさしく  供養は      より優る

ヤンチェー    ワッササタン   フタン
yañce        vassasataṃ    hutaṃ.
それは より   百年の      供犠


○直訳
月に月に千金
彼が百年供養しても
自己を修した一人を
寸時でも供養するならば
それはまさしく、その供養は
百年の供養より優れている


○一口メモ
この詩には、千金、百年の言葉があるので、「千の章」に収められています。
しかし、この詩の眼目は何でしょうか。
供養について語られていますから、功徳のある供養の仕方について述べられているように思われます。しかし、そうではないのです。

104番、105番の詩で自分を調御して自分に打ち勝った修行者の力について述べましたが、それは神々の力をも上回るというものでした。今回も自己を修した一人の修行者の力について述べることがこの詩の眼目なのです。

この詩の因縁物語は、次の通りです。
ある日、サーリプッタ長老は叔父のバラモンに「あなたは何か善いことをしていますか?」とたずねました。
「毎月たくさんのお金をジャイナ教のニガンダたちにお布施をしています。」
「何のためですか?」
「死後、梵天に生まれ変わりたいためです。」
「誰がそう言ったのですか?」
「私の先生です。」
「残念ながら、あなたもあなたの先生も死後、梵天になる方法を知らない。ブッダだけが知っておられる。」とサーリプッタ長老は答え、叔父をブッダに引き合わせました。
ブッダは「月に月に千金、彼が百年供養しても、自己を修した一人を、寸時でも供養するならば、それはまさしく、その供養は百年の供養より優れている。」と述べました。

なぜでしょうか?
供養すること、布施をすることとは、本来その対象者に対してその生き方を尊敬して、その生き方に学ぶことなのです。供養したから、布施をしたから、その見返りに功徳を得ようとするものではありません。もちろん功徳はありますが、ブッダの教えはそんなケチなものではありません。ブッダの教えは常にすべての生命が本当に幸福になる道を説いているのです。

自己を修することが、本当の幸せの道なのです。ですから、自己を修した人を供養して、自己を修することが優れているのです。

見返りを求めて、お布施することは、欲に基づく行為ですから、厳密に言えば善行為ではありません。ですから功徳は期待できないのです。

また、ブッダは梵天になれる方法も教えています。梵天と同じような心になれば、死後梵天になれます。欲のない、怒りのない心を作ればよいのです。瞑想して欲のない、怒りのない心を作ることができます。正確には五覆(欲貪、瞋恚、昏沈・睡眠、掉挙・悪作、疑)をなくせば禅定に入れます。禅定を経験した人は、死後梵天になると言われています。

しかし、ブッダは人々が梵天になることをすすめてはいません。智慧を得て、解脱して、涅槃に至るように教えておられるのです。


「千金を 百年供養 するよりも 克己の人への 一回が優る」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_18.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_22.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年06月19日 04:50
おはようございます。

お布施すると良いことがあります。
お布施した瞬間も気分がいいし、あとで必ず良いことがあります。
私の場合、なんだかそれがはっきりしています。
そのことが分かってから、無欲な気持ちでお布施することが出来なくなってきました。どこかでご利益を期待してしまうのです。
愚かなことだと思います。

初めてお布施したときは、身体中に歓喜が満ちました。事務の方に「ありがとうございます」と言われて、不思議な気持ちがしたのを覚えています。お礼を言うのは、自分の方だと思ったからです。
いまもその気持ちに変わりはありません。
日本にテーラワーダ仏教会があり、お布施をして功徳を積めることを、感謝いたします。
あすか
2012年06月19日 09:00
呪文を唱えるとあら不思議、
お金さえ出せば幸せに、
といった都合のいい話、
よく考えればそんなうまいこと
あるわけないですね。

ブッダはときに厳しいことも仰るし、
自分で努力も必要です。
それでも幸せな「気がする」でなく
本当に心が穏やかになってくるので
これからも続けてみます。

・・・・・・・・・
原文の掲載ありがとうございます。
韻やリズムまで考えぬかれて
作られているようですね。
よく見る言葉は覚えてきました。
パーリ語はできなくても
訳を見たり思い出したりしながら
原文で読んでみると、
また違った発見があります。

・・・・・・・・・
>ぱんさん、語録(?!)
活用させて頂きます。
ありがとうございます。^^
ぱん
2012年06月19日 09:21
お布施についてカエル君さんが書かれています。私も、パティパダー発送のボランティアに参加したおかげで、ワンギーサ師から直接このブログを紹介されました。ボランティア活動で最も助けられたのは私自身だったのです。
noritarou
2012年06月19日 10:14
>人が毎月千回百年間まつるより
1000回÷30日÷16時間/1日=2回以上/1時間
月に千回というと、起きている間、ずっとまつっていることになります。それも100年間。これは人間の寿命以上の期間なので、代々受け継がれている価値観のことと思いました。
最初に読んだ時は、私たちの思考の在り方、時間軸に沿って過去現在未来と、記憶の中で縛られて生きている私たちの思考・概念を改めよ、と暗に言うものかと思いました。
でも、言葉通りにとると、文化・歴史的に、強制的な一神教の宗教が根ざしていて、ある概念に縛られているような方達を救うために言われたものなのかな?とも思いました。
阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、敬礼いたします。すべての生命が幸福でありますように。
と、言う時は、まつるよりも具体的に幸福を感じます。有難い教えです。
ささ
2012年06月19日 21:24
本日、パティパダー発送ボランティアに初参加して参りました。ワンギーサ先生、以前から参加されている皆さまからも貴重なお話を伺うことができ、大変有意義な時間を過ごすことができました。
いつもこうして送り届けられていたんだなという感謝と、本当に話したいことが話せる、また聞ける場所がこんなにも有り難いことなのだなとしみじみ感じました。

またお話から、カティナ衣法要へのお布施の尊さも伺えたので、ぜひその機会にお布施させて頂きたいなと思いました。

帰宅してから早速歩く瞑想を1時間した後、座る瞑想30分に続けてチャレンジしたのですが、まもなく眠気との闘いとなってしまいました。自分に勝つのは手強いですが、懲りずに挑戦し続けようと思っています。

ワンギーサ先生、どうもありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
こころざし
2015年11月12日 06:15
経典のブッダに多大なお布施をされた方は、お布施と共に自身も修行された印象を感じました。
本文の「自己を修ことが、本当の幸せの道・・自己を修した人を供養して、自己を修することが優れているのです」心より共感致します。
お布施をさせて頂きながら、自身が成長出来るように精進して参りたいです。