白髪だと 言うだけで 長老ではない 年を重ねた 老いぼれと言う(260)及び(261)

○子供のためのダンマパダ。
白髪頭や禿げているだけで
智慧のあるお年寄りではありません。
ただ年を取った
頑固だけのお年寄りもいます。
道理をわきまえ
欲と怒りや愚かさを
吐き出して、皆に優しいお年寄りは
長老さまと言われます。


○パーリ語原文と訳語
ナ   テーナ  テーロー  ホーティ
Na   tena    thero    hoti,
ない  それで  長老    では

イェーナッサ  パリタン  スィロー
yenassa     palitaṃ   siro;
所の者は    白髪の   頭

パリパッコー  ワヨー  タッサ
Paripakko    vayo   tassa,
重ねた     年を   彼の

モーガジンノー  ティ ウッチャティ
moghajiṇṇo    ti   vuccati.
無駄に老いた人  と  言われる(260)


ヤンヒ   サッチャンチャ ダンモー  チャ
Yamhi    saccañca    dhammo   ca,
所の者に   真理と     法     と

アヒンサー  サンヤモー   ダモー
ahiṃsā    saṃyamo    damo;
不害     自制      調御の

サ  ウェー  ワンタマロー    ディーロー
Sa   ve    vantamalo     dhīro,
彼が  実に  汚れを吐いた者   賢者

テェーロー イティ  パウッチャティ
thero    iti     pavuccati.
長老     と    言われる(261)


○直訳
頭の白髪の所の者は
それで長老ではない
彼の年を重ねた
無駄に老いた人と言われる(260)

真理と法と
不害、自制、調御の所の者に
彼が実に汚れを吐いた者、賢者
長老と言われる(261)


○意訳
白髪頭であるというだけで
長老ではない
ただ年を重ねた彼を
役立たずの老いぼれと言う(260)

真理と法があり
不害、自制、調御がある
彼は心の垢を吐き出した賢者であり
長老と呼ばれる(261)


○一口メモ
本来「長老」と呼ばれる人は「法住者」(真理に従って生きる人)なのです。年をとって白髪頭になっているだけでは長老ではないとこの詩は述べているのです。ただ年をとっただけならば、「老いぼれ」だというのですから厳しいですね。

長老とはどんな人か、261番の詩で具体的に示されています。
「真理と法があり」の真理とは四聖諦を知っていると言うことです。無常・苦・無我と理解しているでもよいでしょう。
法は九出世間法(預流果、一来果、不還果、阿羅漢果、預流道、一来道、不還道、阿羅漢道、涅槃)を意味します。以前簡単に説明しました。ブログ内検索で調べれば分かるでしょう。

「不害、自制、制御がある」の不害は生き物に害を与えないということです。これは慈悲の瞑想で慈悲喜捨の心を育てたということです。
自制とは戒を守っていることです。
制御とは、瞑想実践で心を清らかにしているということです。

このような人は、「心の垢を吐き出した賢者であり、長老と呼ばれる」のにふさわしいということです。人は見た目で判断してはいけないということも教えています。

この詩に関する因縁物語はスマナサーラ長老の説法をお読みください。
http://www.j-theravada.net/howa/howa152.html


白髪だと 言うだけで 長老ではない 年を重ねた 老いぼれと言う(260)

智慧があり 不害と自制ある人が 汚れおとした 長老という(261)


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200808/article_18.html
http://76263383.at.webry.info/200907/article_3.html
http://76263383.at.webry.info/201005/article_9.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年10月31日 06:35
おはようございます。
年相応に、心を育てなければ…、と思います。
煩悩を捨てて子供のように屈託なく笑い、もうすぐ死ぬことを怖がらずに受け止められるお年寄りになりたいなあ、と思います。
仕事柄、お年寄りと多く接しますが、老いや死を受け入れられずに苦しんでいる人がとても多いので…。お釈迦様の教えがもっと広まれば、この方たちの苦しみも減るのではないかと思うのですが。いまのところは慈悲の瞑想をすることしかできません。
てくてく
2012年10月31日 08:42
おはようございます。てくてくは、常に、体の機能を保っていることがギリギリ精一杯なので、てくてくより少しでも年を重ねて居る人を見れば素直に尊く、おめでとうございます、健やかで、幸せでありますようにと思います。てくてくには、出来そうにもないことをすでに体現されている方々だから・・・。てくてくは、今日、今を迎えられることが、ありがたいです。その上で、徳を積める体力が今日一日、保てたなら、本当に本当に、ありがたいです。
今ある命はすべての生命のおかげです。
生きとし生きるものたちが幸せでありますように。

あすか
2012年10月31日 12:14
大人は子どもと違ってすごいんだ!
と子供の頃、思っていましたが、
いざ、大人になってみると…。

そして、年配の方というと
尊敬できるイメージがありますが、
さて、そうなれるでしょうか。

上手に年を重ねていけるよう
今から心を磨きます。

雨安居明けですね。
今後も変わらず精進します。
MK
2012年10月31日 23:33
こんばんは。
人は見た目より中身の方が大切という道徳は至る所で語られています。それに、誰に聞いても、その通りだと言います。
でも、結局の所、見た目からイメージされるキャラクターで人を判断する事ばかりです。美人を見ただけで美人な人の性格を勝手に期待してしまうなんてことは、心理学でも言われている事です。人は見た目が9割なんて本もあるくらいですから、相当根強い無知の法則だと思います。

でも、今回の詩と長老の法話を合わせて読むと、人の徳を見れば、この問題を乗り越えられると分かります。たったこれだけなのに、見た目による差別も固定イメージも消えてしまう。こんなことは、ただ心理学を学んでいても、絶対に分からなかったと思います。正に、智慧の教えだなと思いました。
こころざし
2015年12月26日 07:50
高齢者福祉の仕事をしています。お年を取られてもとても自己中心的な方と、謙虚な感じの方がいます。歳を取ると怒り易くなる面がある様子ですが、全てに当てはまる訳ではありません。
心を成長させてきたのかそれとも自由奔放に生きてきたのか・・、と感じる事もあります。
私は心が成長できるように、矢のように過ぎていく今を大事にして学び・実践して参りたいです。