迷惑を 誰にも掛けない 聖者たち 涅槃の境地に おもむくだろう( 225)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。

○子供のためのダンマパダ

聖者と言われる人は
他人に迷惑をかけないよ
他人に迷惑をかけないと
自分の悩みもなくなるよ
不思議かもしれないけれど


○パーリ語原文と訳語

アヒンサカー イェー  ムナヨー
Ahiṃsakā   ye     munayo,
不害の    所の者  聖者たちは

ニッチャン カーイェーナ  サンウター
niccaṃ    kāyena     saṃvutā;
いつも   身体を     制御する

テー  ヤンティ  アッチュタン  ターナン
Te    yanti   accutaṃ     ṭhānaṃ,
彼らは  行く   不死の     境地に

ヤッタ  ガントゥワー  ナ  ソーチャレー
yattha   gantvā     na   socare.
そこに  至って     ない  憂いは


○直訳
不害の所の者、聖者たちは
いつも身体を制御する
彼らは不死の境地に行く
そこに至って憂いはない

○意訳
誰にも迷惑をかけない聖者たち
常に自分の行為を制御している
彼らは涅槃の境地に至る
そこにはどんな苦しみもない


○一口メモ
今日は、この詩の2行目、3行目について考察してみようと思います。
直訳では「いつも身体を制御する/彼らは不死の境地に行く」
意訳では「常に自分の行為を制御している/彼らは涅槃の境地に至る」です。

「なぜ常に自分の行為を制御している彼らは涅槃の境地に至るのか?」ということを考えようということです。「子供のためのダンマパダ」では「他人に迷惑をかけないと/自分の悩みもなくなるよ」ということです。

他人に迷惑をかけないということは、結構難しいことです。そのためには、自分の行いを常にチェックしておかなければなりません。私たちは、いつもあたりまえのように自分の好きなように行動しています。その行動が他人の迷惑かどうか気にしていないのです。時々気が向いた時だけ、他人の迷惑になるか気にするだけです。ほとんどは気にしてないのです。私たちはいつもいろいろなことをしていますから、いつも自分の行いをチェックしなければいけません。今まで他人を気にせずに生活していた人には大変なことです。実はこれだけでも、人間は賢くなるのです。そうでしょう。いつもぼんやり生活していた人が自分の行為をチェックするのですから。

さらに、自分でチェックした行為を自分かってに行ってはいけないのです。他人に迷惑にならない行為に変更しなければいけないのです。自分の好きな行動を望むのは自我なのです。他人の迷惑にならないようにするためには、自我を捨てなければなりません。自我を捨てることはなかなかできません。実は自我を捨てるためには智慧が必要なのです。智慧のない人は自我を捨てられません。そもそも自我などというものないのだと言うことが分からなければ自我は捨てられないのです。自我ないことが分かるためには相当な智慧が必要なのです。智慧と同時に慈悲の心も必要です。慈悲の瞑想で自我の思いが少なくなれば、自我は捨てやすくなります。

そんなわけで、他人に迷惑をかけないようにすると、智慧と慈悲の心が育ちます。そうすると、すべての煩悩(心の汚れ)が捨てられるようになるのです。すべての煩悩を捨てると、そこは涅槃の境地です。涅槃には悩みはないのです。「自分の悩みはなくなるよ」ということになります。不思議かもしれませんが、他人の迷惑にならないようにがんばって下さい。やってみればわかります。


迷惑を 誰にも掛けない 聖者たち 涅槃の境地に 赴くだろう( 225)


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200807/article_31.html
http://76263383.at.webry.info/200906/article_15.html
http://76263383.at.webry.info/201004/article_21.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

あすか
2012年10月07日 08:20
害を与えない。
非暴力、と言うと、
暴力なんて振るってない、
と簡単に思いがちですが
迷惑をかけない、として
広く精神的なものなども含めると
なかなか難しいですね。
人だけでなく他の生命や
大きく環境にまで考えるとさらに
やりがいも難しさも増します。

今日も明るく楽しんで精進します。
生きとし生けるものが
しあわせでありますように。
2012年10月07日 08:47
おはようございます。
涅槃と言えば、長部経典17マハースダッサナ経を思い出します。

クシナガラの地において涅槃に入ろうとする釈尊に対し、アーナンダ尊者が他のもっと大きな都市で涅槃に入られるよう懇願する場面があります。そこで釈尊は「いや、この地はかって大都市で、過去世で私はマハースダッサナという王でこの地を統治していた。」という前世を説かれるんです。

人格を完成し、徳を備え、善行為を積み重ねれば、自然とあらゆる財産、容姿、伴侶etcが願わなくとも備わってくる。

そしてあらゆる五欲が備わったところで、禅堂を建て、欲を捨てて色界四禅定を完成する。

そこでこの欲界からいよいよ去ろうとするマハースダッサナ王に対して、そのお后が欲を捨てないよう、この世にとどまるよう懇願する。

でマハースダッサナ王は后に言うんですね。「この期に及んでそのような言葉を言ってはいけない。〃王様、ありとあらゆるものに欲や執着してはなりませぬ。〃とこのように言うべきだ。」

で泣きながら、后は「王様、ありとあらゆるものに欲や執着してはなりませぬ。」と言うんですね。
これは俗世間的に言えば、王を愛しているからこそ、その言葉に従ったんですね。
この場面は読んでいて実に感動的です。

続く~
2012年10月07日 08:49
続き~
で釈尊はアーナンダ尊者に「このクシナガラにこのような事があったが今はその跡形もない。」ものの無常を説かれるんですね。

「生じて滅びる性質を持つ 諸行は無常である 生じて滅びるそれらから [こころを]静めるのが安楽である」

の偈でこの経典は終わるんです。

本当に感動的なお経です。
皆さんも是非この長部経典を読んでみて下さい。

経典の直か読みしか味わえないものを感じると思います。

仏教がなんたるものか、どう生きるべきか?自ずとわかると僕は確信しています。
長文失礼致しました。m(_ _)m
カエルくん
2012年10月07日 23:51
こんばんは。
おせっかいな性格なので、「相手のため」のつもりで、ついやり過ぎてしまいます。その結果、かえって相手の心を傷つけてしまうこともしばしばです。
本当の意味で「相手のため」になることを出来るようになるには、もっともっと、慈悲喜捨の心を育てなければならない、と思っています。
こころざし
2015年12月18日 06:21
私事ですが、同居の義母と戦いになる事がしばしばあります。双方が自分の主張をした上で折り合いをつける形を取りたい自分と、話し合いが嫌いでそれを拒否し・他の家族にわーわー僕の文句を言いまくる状態になるのがこれまでのパターンでした。義母の言いなりにならない可愛くない義息子の図でしょうか。
そんな義母に難を感じるのは簡単ですが、本文を拝見し自分の足りない所を教えて頂きました気持ちになりました。
その私の言動はエゴではないのか、慈しみがあるか、無明ではないかを観察しながら、義母に接してみたいと思います。