執着の ある人々を 死神は 洪水のように 奪い去るのだ(287)

○子供のためのダンマパダ。
・・・
私の息子は賢くて立派だ。
私のめ牛はよく乳がでる。
と喜んでいても、
いつ死ぬかわからない。


○パーリ語原文と訳語
タン   プッタパスサンマッタン
Taṃ    puttapasusammattaṃ,
自分の  子 家畜に 夢中な

ビャーサッタマナサン  ナラン
byāsattamanasaṃ    naraṃ;
執着の意の       人を
 
スッタン ガーマン  マホーゴーワ
Suttaṃ  gāmaṃ   mahoghova,
眠れる  村を    大暴流のように

マッチュ  アーダーヤ  ガッチャティ
maccu    ādāya     gacchati.
死神が   取って     行く


○直訳
自分の子・家畜に夢中な
執着の意の人を
眠れる村を大暴流のように
死神が取って行く


○意訳
子供や家畜に夢中になって
それらに執着している人を
眠っている村を大洪水が襲うように
死神は彼を奪い取って行く


○一口メモ
この詩は「第四 花の章」の次の詩(47番)によく似ています。その意味もほぼ同じです。

実に花を摘んでいる(人の)ように
執着の意のある人を
眠った村を大洪水のように
死神は取って行く(47)

これらの詩を表面的に読むと、仏教はニヒリズム(虚無主義)だ。暗い教えのように思われます。なぜ、この詩が暗い教えのように思われるのか分かりますか。それは死について述べているからです。

しかし、死は真理の観点で見るとき、(真理の観点で見るとは、すでに述べたように、無常・苦・無我の観点で見るということです。)この詩はありのままの事実を述べているのです。それは暗いとも明るいとも言えない、ありのままの姿なのです。

しかし、息子(家族)や家畜(財産)に執着している人にとっては、死神が大洪水で人をさらって行くように、悲しい、苦ですが、執着していない人にとっては、死は無常の世界にあっては、ありのままの実態なのです。喜ぶことでも悲しむことでもないのです。

この詩では、死の悲しみを乗り越える道(方法)を暗示しているのです。息子(家族)と家畜(財産)を自分のものであると執着している人に、死神(悲しみ、苦しみ)が訪れると言っているのです。それらに執着してない人には死神(苦)は訪れないのです。ありのままがあるに過ぎないのです。執着しない人は無我の人なのです。

以上、死について無常・苦・無我の観点から説明してみましたが、納得できたでしょうか?
苦しみを除く道が明確でありますから、ニヒリズムではないのです。


執着の ある人々を 死神は 洪水のように 奪い去るのだ(287)


○スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法
*安心という幻想 ~命は不安で成り立っている~
http://www.j-theravada.net/howa/howa170.html


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
*287.子供や家畜に夢中になって、それらに執着している人
http://76263383.at.webry.info/201005/article_27.html
*執着のある人々を死神は洪水のように奪い去るのだ
http://76263383.at.webry.info/200907/article_22.html
*子供や財産夢中な人を予告しないで死が襲う
http://76263383.at.webry.info/200809/article_8.html 


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~お知らせ~~~~~

◎11月24日(土)、11月25日(日)はつくば市の讃仏陀楼華寺のカティナ衣法要に参加するため、
11月25日(日)のゴータミー精舎の朝の自主瞑想会はお休みします。

◎10月30日雨安居は終了しましたが、ワンギーサがゴータミー精舎に滞在中は
朝5時から7時まで及び夜7時から9時までのゴータミー精舎での自主瞑想会は
毎日行います。ふるって参加して下さい。但し木曜の夜は、瞑想会は休みます。
詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。

◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。
そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。現在2位す。

この記事へのコメント

カエルくん
2012年11月23日 04:51
おはようございます。
私はきちんと死ぬ準備ができているだろうか…、ということを考えてしまいました。明日(正確には今)、死んでもいいように、と思うとまず部屋のお掃除をしなければ、と思います。誰に見られても恥ずかしくないように。
でも肝心なのは心のお掃除ですよね。一日ではキレイにならないのですから、コツコツ頑張ります。
才木広之
2012年11月23日 12:11
執着があっても、関係なしに、死は訪れるから
おやつがほしいと願っても、
教育者は躾を行う
「駄目なものは駄目」
「いつまでも泣いてるんじゃありません」
あきらめることを、教える
そして執着がない喜びを知る
あすか
2012年11月23日 17:12
第二の矢に苦しむより、
有意義に生きて回向ですね。

仏道に詳しくない人々が
表面の一部だけ見て誤解するのも
わからなくもありません。


自分も他の事柄について
詳しくもないのに勝手に
解釈して批判したりしていないか、
よい戒めになりました。
MK
2012年11月24日 00:02
こんばんは。
スマナサーラ長老の解説にあった引越しの例えはなるほどと思いました。
業によってなのか、悪いことをしてもなんてこともなく俗世間の幸せを得て生きる人、大して悪人でもないのにびっくりするほど不幸な人、立派に生きても最後には認知症で訳も分からなくなってしまう人…。最近、妙にそういう人々の人生に出会います。嫌でも業や生きることについて考えさせられます。
俗世間の幸福を主軸に置いて、たとえ幸福な人生を送っても、全く意味がないのですね!どんなに幸福な人生を送っても、あっという間に洪水に奪われてしまう。
本当に大切なのは今の状況にあれこれいうより、とにかく心を清らかにすることなんですね。なるほど、と思いました。
SRKWブッダ
2014年07月27日 19:44
穀物が実ると、農夫はこれを刈り入れる。多くを食し、一部を来年蒔く種として残す。これによって、農夫は穀物を無くすことなく繰り返し収穫の時を楽しむ。

人々(衆生)の執著が蓄えられると、死神はこれを刈り取りにやってくる。多くを食し、一部を以って衆生の来世の再生の因とする。これによって、死神は人々(衆生)を絶えてしまうことはない。衆生に輪廻を繰り返させて、つねに刈り取りの時を楽しむのである。

いとも聡明な人が、この妄執を離れ、再生の因を生滅せしめ、死神の眼を脱れる。かれは、すっかり解脱していて、二度とこの苦悩の世には戻ってはこない。

輪廻と不還のどちらの道を選ぶのも、各自のことがらである。

***
SRKWブッダ
2014年07月27日 21:50
訂正) 再生の因を生滅せしめ → 再生の因を消滅せしめ
こころざし
2016年01月02日 18:58
本文の「自分のものであると執着している人に、死神(悲しみ、苦しみ)が訪れると言っている・・」を拝見し、ハッとしました。死神から死に近づくものとの連想をしがちでしたが、悲しみ・苦しみの意味から通じるものを感じました。
執着するとまさに悲しみ・苦しみしか生じないように思います。執着を捨てれるようにしたいです。