恐怖なく けがれない人 生存の 欲を捨て去り 最後の身体(351)及び(352)

○子供のためのダンマパダ。
・・・
勇気のある人も、
怖いという気持ちはあるのです。
死にたくないという気持ちがあれば、
死ぬかもしれないと思う時、
怖いと思うのです。
・・・
しかし、すべてを知って、
もう死んでもいいと思える人は、
怖いという思いはありません。
その人は修行の完成者、
大智慧者で大勇者です。


○パーリ語原文と訳語
351.
ニッタンガトー  アサンタースィー
Niṭṭhaṅgato    asantāsī,
究極に達し    恐れがない

ヴィータタンホー   アナンガノー
vītataṇho       anaṅgaṇo;
渇愛を離れ      穢れがない

アッチンディ  バワサッラーニ
Acchindi     bhavasallāni,
切断した    生存の矢

アンティモーヤン  サムッサヨー
antimoyaṃ      samussayo.
最後の これは    身体

352.
ヴィータタンホー  アナーダーノー
Vītataṇho      anādāno,
渇愛を離れ     執着のない

ニルッティパダコーヴィドー
niruttipadakovido;
聖典の語義を熟知して

アッカラーナン  サンニパータン
Akkharānaṃ    sannipātaṃ,
文字の       配列を

ジャンニャー   プッバーパラーニ  チャ
jaññā       pubbāparāni     ca;
知る       前後を       また

サ  ヴェー   アンティマサーリーロー
Sa   ve     antimasārīro,
彼は 実に    最後身

マハーパンニョー   マハープリソー  ティ  ウッチャティ
mahāpañño      mahāpuriso    ti    vuccati.
大智慧者       大人物      と    言われる


○直訳
究極に達し、恐れがない
渇愛を離れ、穢れがない人は
生存の矢を切断した
これは最後の身体(である)(351)

渇愛を離れ、執着のない
聖典の語義を熟知して
文字の配列を
また前後を知る(ならば)
実に彼は最後身を(持つ者)
大智慧者、大人物と言われる(352)


○意訳
悟りの境地に達して恐怖がなく
渇愛から離れて穢れのない人は
生存の矢を断ち切った
その身体は最後のものである(351)

渇愛を離れ執着がなく
経典の語義を熟知して
文字の配列や
前後関係を知る人
彼は最終身の人
大智慧者、大人物と言われる(352)


○一口メモ
この詩の因縁物語は次の通りです。ある日、多くの長老たちが祇園精舎に訪ねて来られました。この長老たちのために、ブッダの息子であり8歳で阿羅漢になったラーフラ長老は、自分の部屋も提供しました。寝る場所がなくなったラーフラは香堂の前で寝ました。そこへマーラ(悪魔)は象の姿に変身して、鼻をラーフラの頭にのせて、大きな声で叫びました。しかし、ラーフラは別に驚くこともなく、そのまま寝ていました。香堂におられたブッダはこの異変に気付かれ、これはマーラの仕業だと察知して、「愚かなマーラよ、そのような行為を千回繰り返しても私の息子を脅かすことはできない。」と言い、上記の詩のように説かれたということです。

この詩では解脱して、涅槃に達した阿羅漢の特徴が述べられています。それについて整理してみましょう。

①恐れがない。これは阿羅漢の偉大なる特徴でしょう。恐れは煩悩が原因なのです。煩悩のない人には恐れはありません。恐れのない人は落ち着きがあります。恐れがない人はどんな時でも落ち着いています。

②渇愛から離れている。渇愛が苦の原因です。渇愛から離れることは、苦から離れています。阿羅漢には苦がないのです。完全に苦から脱出しているのです。

③穢れていない。穢れとは心の汚れです。心の汚れとは煩悩です。阿羅漢には煩悩がないのですから、穢れていないのです。

④生存の矢を断ち切っている。存在の矢とは生存欲を意味します。生存欲は三種の渇愛(五欲、生存欲、破壊欲)の一つです。生存欲がない人は①に述べた恐れがありません。

⑤執着がない。執着は渇愛から生まれます。渇愛から離れた人には執着はないのです。

⑥聖典の語義、文字の配列、前後関係を熟知している。このことについては少し説明しましょう。
ブッダは誰に教えてもらうことなしに、独自に悟りの道を開発し、涅槃に至りました。そのために、波羅蜜(悟るための素質、能力)を何回も転生を繰り返して養成されました。阿羅漢はブッダの開発された涅槃への道(聖典)を正しく実践すれば修行は完成します。しかし、言葉では表せない涅槃の境地は、ブッダの表現された言葉(聖典)を正しく理解しなければ、正しく実践できないのです。そのため、阿羅漢はブッダの言葉を正しく理解する能力が必要なのです。

ブッダの言葉を正しく能力は、前の詩で説明した正しく考えること、正思(正思惟)が必要です。もちろん、その前提の正見も必要です。また、ブッダの言葉を正しく理解するためには、観察する修行を通じて、自分の心、他人の心を理解することも必要なのです。「聖典の語義、文字の配列、前後関係を熟知している」ことは阿羅漢にとって当然の能力であり、特徴なのです。

以上のような、能力、特徴を持つ阿羅漢は「最終身の人、大智慧者、大人物」と言われるのです。

「最終身の人」とは、現在の肉体が最後の肉体になるということで、もうこれ以上輪廻転生は繰り返さないと言うことです。苦しみの輪廻は終わりました。輪廻と苦の原因である渇愛がなくなったのですから、当然のことです。


恐怖なく けがれない人 生存の 欲を捨て去り 最後の身体(351)

渇愛と 執着離れ 経典の 語義を知る人 偉大な智慧者(352)


○スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法
この御説法は日本テーラワーダ仏教協会のHPにまだアップされていません。
2012年11月号のパティパダーの巻頭言に掲載されています。


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
*351.352.渇愛を離れ執着がなく、経典の語義を熟知して
http://76263383.at.webry.info/201007/article_5.html

*恐怖なく穢れない人生存の欲を捨て去り最後の身体
http://76263383.at.webry.info/200908/article_33.html

*恐怖なく穢れない人生存の欲を捨て去り最後の身体
http://76263383.at.webry.info/200810/article_24.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~お知らせ~~~~~

◎1月18日(金)の夜、1月19日朝及び夜の自主瞑想会はお休みします。
ワンギーサがマーヤーデーヴィー精舎における新年祝福法要に参加するためです。

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。
朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。
但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。
変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。
詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。

◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。
そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。

この記事へのコメント

あすか
2013年01月13日 09:14
恐れも渇愛もない。
なんと軽やかなことでしょう。

空腹や暑さ寒さ痛みといった
肉体的なものからも
開放されているのでしょうか。

少しでも近づけるよう
今日もがんばります。
カエルくん
2013年01月13日 15:59
こんにちは。
毎日がトラブル続きなのは、私自身が煩悩まみれだからなのだろうなあ…。とほほ。と思いながら読みました。
やるべきことは落ち着いて行い、余計なことは手放していこうと思います。
こころざし
2016年01月19日 07:51
「落ち着いて冷静にいよう」と思ってもなかなか出来るものではありません。ですが、こちらで学ばせて頂く事を実践すればする程、(自分的に)落ち着いている状態を得られています。有難い事と思います。
私が正見・正思が出来ているか・・ですが、真摯に学ばせて頂きながらそれが身に着けられるように学ぶ+実践する事を日々行っていきたいです。