死んだ身も 生きた身であった 生きた身みも 必ずいずれ 死んだ身になる<203>及び<204>

○少年少女のためのスッタニパータ203.204.
・・・
死んだ人を見たら
あの死体も自分の身体のようであった
自分の身体もあのようになると思うべきだ。
皆、死ぬのだとわかれば、
けんかは止めようと思えるよ。


203.204.第1 蛇の章 11.勝利の経 11.12.

○日本テーラワーダ仏教協会訳
203.
〈かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。
この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう〉と、
自分の身体に対する欲をも、
他人の身体に対する欲をも離れるべきである。

204.
愛欲を離れた
智慧ある修行者は、
不死・平安・不滅なる
ニルヴァーナという最高の境地に達した。


○毎田周一先生訳
203(11)
「これ(即ち生きた身)のやうにあれ(死んだ身)もさうであり
あれのようにこれもさうである」と
自分についても他人についても
身を欲求することから離れなければならない

204(12)
そのやうにして欲求と激情とを超えて
賢く道を求める人は
この世にあつて変わることのない
安らかな涅槃の永遠の境地に到達してゐる


○中村元先生訳
203
(かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。
この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)と
内面的にも外面的にも
身体に対する欲を離れるべきである。

204
この世において愛欲を離れ、
知慧ある修行者は、
不死・平安・不滅なる
ニルヴァーナの境地に達した。


○正田大観先生訳
205.(203) 
〔彼は〕『すなわち、この〔身体〕のように、そのように、この〔死体〕は〔かつて存していた〕。すなわち、この〔死体〕のように、
そのように、この〔身体〕は〔いずれ存するであろう〕』〔と見て〕、
内にも、外にも、
身体についての欲〔の思い〕を離貪させるであろう。(11) 206.(204) 
欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が離貪した、
その比丘は、この〔世において〕、知慧ある者となる。
不死なる寂静に、死滅なき
涅槃の境処に、到達したのだ。(12)

○パーリ語原文
205.
ヤター     イダン        タター      エータン
Yathā      idaṃ         tathā       etaṃ,
ように     この(身体)の    そのように   この(死体もあった)

ヤター     エータン       タター     エータン
yathā      etaṃ         tathā      idaṃ;
そのように   この(身体)も   そのように   この(死体になる)

アッジャッタンチャ     バヒッダー     チャ
Ajjhattañca         bahiddhā      ca,
内に    も        外にも        も

カーイェー      チャンダン      ウィラージャイェー
Kāye         chandaṃ        virājaye.
身体における    欲を          離れるだろう


206.
チャンダラーガウィラットー     ソー
Chandarāgaviratto          so,
欲貪を離れた             その

ビック      パンニャーナワー    イダン
Bhikkhu     paññāṇavā        idha;
比丘は     智慧のある        ここに

アッジャガー    アマタン      サンティン
Ajjhagā       amataṃ      santiṃ,
到達した      不死に       寂静に

ニバーナン     パダマッチュタン
nibbānaṃ      padamaccutaṃ.
涅槃に         不滅の境地                   


○一口メモ
現代日本では、死体と遭遇することはめったにありません。映像としては、時々見ることはあるかもしれませんが、それでも、テレビ局では死体は見せないようにしています。東北大震災の時も、おびただしい数の死体があったはずですが、それは放映しないようにしていました。少し大きい病院では、毎日何人かの方がなくなっているのです。しかし、決して死体は患者さんたちには見せないように、病院の裏の廊下を通って移動させます。ですから、私達はほとんど死体を見ることができません。

しかし、生まれた生命は必ず死にますから、生まれることが日常的なように、死ぬことも日常的なできごとなのです。死体を見る機会があれば、203番の偈はこの死体はかつて、今の自分の同じような肉体であったと思い、今の自分のこの肉体も、必ずこの死体のようになるとしっかりと感じる必要があると教えています。なぜならば、それは真実だからです。真実から眼をそむけてはいけません。真実をしっかり見ること、ありのままに見ることから、智慧が生まれてくるのです。事実、真実から眼をそむけていると、何もわからない愚か者になるのです。愚か者は迷いの生活を続け、悩み苦しみをなくすことが出来ないのです。一方、肉体の本質を理解し、死の現実をよく知るものは、自分の身体にも、他人の身体にも、それらに対する欲やなくなり、それらに執着することがなくなります。

ブッダが教えるように、悩み苦しみの元である欲、愛欲をなくすことの出来た修行者は、不死と言われる境地、死ぬことがない境地、信じられない境地ですが、生きるとか死ぬという現象を超越した境地ですから、このように言われるのです。またそれは、単なる静かさを超越した寂静の境地である涅槃という境地に到達するとブッダは述べられておられます。


死んだ身も 生きた身であった 生きた身も 必ずいずれ 死んだ身になる<203>

身体への 欲を離れた 修行者は 不死・平安の 涅槃へ至る<204> 


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎緊急連絡:9月15日(日)から9月19日(木)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。

この記事へのコメント

櫻井由紀
2013年09月13日 09:30
一切の事象は
消滅し
増減し
盛衰する
前のものは
断絶しながら
重なる事無く
後ろのものを
相続して行く
地・水・火・風の集まりは
バラバラになる
この身は脆く、儚い、色身である
千変万化し無常である

三帰依いたします
生きとし生けるものが幸せでありますように
こころざし
2016年04月09日 10:45
本文を拝見し、(話が変わってしまう面もあり恐縮ですが)、水洗+ウォッシュレットトイレが当たり前で汚物をあまりみない・触れないのが日常になっている事を思いました。ウォッシュレットでないと大をしない自分なので、私もまさにその一人です。それでは生き様の一場面しか見ないのが当たり前になっている印象を感じます→人間力的なものは弱くなってしまいそうです。
死体を見ることも日常はないですが、やはり真実を知って・触れて、そして無知の・得たいのしれない何かに怯える・・みたいな事がないようにしたいです。