思慮ある 弟子は理解して 注意して 師に従って 聡明になる<317>

○少年少女のためのスッタニパータ317.
・・・
伸びる生徒は
素直な人だと
どんな先生も言う。


スッタニパータ317. 第2 小さな章 8.船経(法経) 2.

○中村元先生訳
317
思慮ある人は、そのことを理解し傾聴して、
理法にしたがった教えを順次に実践し、
このような人に親しんで怠ることがないならば、
識者・弁え知る者・聡明なる者となる。


○正田大観先生訳
320.(317) 
その〔法〕を義(目的)と為して、こころして聞いて、
慧者は、法(教え)を法(教え)のままに実践しつつ、
識者と〔成り〕、〔法を〕分明する者と〔成り〕、しかして、精緻の者と成る
――彼が、〔気づきを〕怠ることなく、そのような〔多聞の〕者と親しくするなら。(2)


○パーリ語原文
319.
タダッティカトゥワーナ   ニサンマ    ディーロー
Tadaṭṭhikatvāna        nisamma    dhīro,
それを対象として      注意して    賢者は

ダンマーヌダンマン     パティパッジャマーノー
dhammānudhammaṃ     paṭipajjamāno;
法に従う法を         実践して

ウィンニュー  ウィバーウィー   ニプノー  チャ    ホーティ
Viññū       vibhāvī        nipuṇo    ca      hoti,
識者      分別者        聡明な人  そして   成る 

ヨー   ターディサン  バジャティ  アッパマットー
yo     tādisaṃ     bhajati     appamatto.
彼が   そのように  親近する   不放逸(ならば)


○一口メモ
今日は初めに、12月30日以後このブログの更新を出来なかったことをお詫び申し上げます。
その理由は、私の使用しているパソコンの不調だったことです。実はまだ、完全にパソコンの調子が戻ったわけでなく、臨時の応急対策をしておりますので、またどのような事態になるか分かりません。しかし、毎日更新続ける所存でありますので、宜しくご支援をお願いいたします。

では、早速今回の偈の説明をいたします。ブッダは、「善友と親交することは仏道修行のすべてだ」と言われました。ですから、仏教では善友と親交することを非常に重視しております。仏教を知らない人が仏教に近づく縁になるのは善友です。また修行中において、精進を持続させる力になるのも善友です、更に、修行の最終段階で修行を完成をさせるに際しても善友の力は大きいのです。

善友については、このブログで何回も述べておりますので、是非ブログ内の検索で善友を調べて、そのいくつかについてお読みください。

この偈は、善友との親交を師匠と弟子の関係として述べています。賢明な弟子は、多聞なる、法を知る師匠に明らかにされた法に耳を傾け、その法に従って実践することが述べられています。ここでもう一つ仏教の重要なキーワードである不放逸という言葉が出てきます。不放逸とは単に怠けないとは異なります。念(気づき、この漢字が現わしているように、「今の心」を知っていることです。)を持続させ、それを怠けないことです。つまり、師匠に示された法を不放逸で実践すること。そうすれば、「識者・弁え知る者・聡明なる者となる。」というわけです。つまり、これは悟りを開くということです。


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


        ~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。

この記事へのコメント

あすか
2014年01月05日 13:21
精舎、瞑想会や講演会の会場に
直接足を運べなくても、
こうして皆様と共に歩める
貴重な機会に恵まれていることに
感謝し、今日も精進いたします。

生きとし生けるものが
幸せでありますように。
櫻井由紀
2014年01月05日 20:18
いつか「将来」ではなく
「今この瞬間、悟りが開けますように!」

先生が御示しになられた法を
「不放逸」で実践する努力をします。

最高・最善の「善友」に出会えました。
他は何もいりません。

本当に。

生きとし生けるものが幸せでありますように
MK
2014年01月05日 23:28
厚かましいことで恐縮ですが、僕も櫻井さんのように善友・仏教に出会えたこと以外、何もいらないと言える心境になりたいです。
今の僕には、家族が欲しい・もっと良い仕事に就きたい・俗世間的な欲を享受したい、といった思いは未だ強く残っています。これらの希望の為に苦しみを味わっているにも関わらずです。
そして、俗世間的な希望を叶える為、心は仏教を脇に置いて、俗世間の価値観に賛成しようとしてしまいます。

こういうとき、善友と接していることは非常に重要だと感じます。仏教に心を引き止める為にも、善友との交流は必要だと思います。よろしくお願い致します。

生きとし生けるものが幸せでありますように
鹿野苑の馬鹿凡
2014年01月06日 04:52
ワンギーサ先生
本年も宜しくご指導下さるようお願い申し上げます。
さて、スマナサーラ長老の素晴らしい新春講演会をネットで拝聴いたしました。
この中で「慈悲の瞑想」についての大切なポイントが語られていましたので、次のように私なりにまとめてみました。

(1)<慈悲の瞑想>は、「私を幸福にしてください」という「(神様・仏様に対する、他人様まかせの)お祈り」では決してない。
しかし、「私は幸福である」と断定するものでもない。そのように断定することは嘘になる。そもそも生きることは苦であって、はじめから幸福であるはずはない。もしも自然のままで幸福であったならば、仏教は不要である。
あくまでも、「生きることは苦である」という厳しい現実を踏まえた上で、それでもなお「私は幸福であれ」と、「苦を無くすこと」を期待して念じるのであって、そのような意味で「私は幸せでありますように」と念じる瞑想なのである。

この点、全ての生きとし生けるものには例外なく「苦を免れて幸せになろうとする権利」「自ら幸福を追求する権利」「幸福を目指す人権(生まれながらに有する自然の権利)」がある。
そこで、このように一切の生命が有する権利・人権を素直にしっかりと肯定的に認め、他の生命の幸福追求行為という権利行使を邪魔することなく、これを最大限に尊重し、できればその手助けをする。そのようにして全ての生命の権利・人権を守り、生きとし生けるものが皆幸せであってほしいと期待する、という意味で念じるのである。
鹿野苑の馬鹿凡
2014年01月06日 04:53
(2)私には幸福を目指す権利がある。ただし、他の人、他の全ての生命にも同じようにそれぞれが自分の幸福を目指し、自らの幸せを追求する権利を持っている。だから、「私だけでなく、他の全ての生命も幸福でいてほしい」と期待することは善いことであり、理想的な姿を思い描く正しい願望・想念と言えるのである。

もちろん、そのように期待したからといってそれだけで実際に幸せになるとは限らない。
しかし、そのような期待はエゴ・貪瞋痴によるものではなく、逆にエゴ・貪瞋痴で歪んだ心を矯正する正しい思考・期待になるのである。これは自分自身の心を正す訓練である。
そして、私も、他の全ての生命も、本当の意味で幸せになるためには、智慧を獲得して煩悩を滅尽することで苦滅=涅槃を達成するしか他に道はないのであるから、最終的に、全ての生命に「覚り(智慧)の光が現れますように」と期待することは当然の成り行きなのである。

このように、<慈悲の瞑想>は「神様に願望を実現して頂くためのお祈り」という、せこい発想でやるものではない。私は「しっかりと全ての生命の人権を守る」という、何かとても格好の良いことをしているのだ、と誇らしく思えるような気持でするものであり、
すなわち、Positive feedbackをしているのである。

皆様に智慧の光が輝きますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
こころざし
2016年05月18日 19:53
本文の「師匠に示された法を不放逸で実践すること」是非実践して参りたいです。ですが現状は一日のうち、出来ていない方も多いのが実情かと思います、恥ずかしいです。
徐々にでも出来る割合を増やし、そして不放逸の姿勢が恒常的に出来るよう、努力して参りたいです。そして悟りの所まで行けたら良いなと心より思います。