内外の 善なるものを 考察し 越え行く人は 賢者と呼ばれる<526>
○少年少女のためのスッタニパータ<526>
・・・
仏教では
悪業は黒業と言い、
善業は白業と言います。
第3 大きな章 6.サビヤ経 17.
○中村元先生訳
526
内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、
清らかな知慧あり、
黒と白(善悪業)を超越した人は
まさにその故に(賢者)と呼ばれる。
○正田大観先生訳
532.(526)
内に、さらには、外に、両者の白きもの(内外の認識の領域・十二処)を〔あるがままに〕弁別して、
清浄の知慧ある者となり、
黒と白(悪業と善業)を超克した者
――真実なることから、如なる者は、『賢者』〔と〕呼ばれます。(17)
○パーリ語原文
531.
ドゥバヤーニ ウィチェッヤ パンダラーニ
‘‘Dubhayāni viceyya paṇḍarāni,
両者の 考察して 白いものを
アッジャッタン バヒッダー チャ スッディパンニョー
ajjhattaṃ bahiddhā ca suddhipañño;
内の 外の と 清らかな智慧あり
カンハン スッカン ウパーティワットー
Kaṇhaṃ sukkaṃ upātivatto,
黒を 白を 越えて行く人
パンディトー ターディ パウッチャテー タタッター
paṇḍito tādi pavuccate tathattā.
賢者と そのような人を 言う それ故に
○一口メモ
今回は遊行者サビヤさんの次の質問に対するブッダの解答です。「どうして<賢者>なのですか?(どのようにして、『賢者』と〔呼ばれるのですか〕。)」
今回も言葉の発音が似ている単語を活用した説法です。今回のキーワードはpaṇḍita(賢者)ですが、
paṇḍati(行く)と発音が似ています。ですから、paṇḍita(賢者)は「行く者」のように聞こえます。しかし、
賢者は単に行く者ではないのです。またpaṇḍitaと発音の似ているpaṇḍarāni(白いもの)を活用して、白いものとは善なるものを意味するのですので、白いものを考察して、行く者が賢者であるとしているのです。更に、それだけではなく、黒(悪)と白(善)を「越えて行く者」をpaṇḍita(賢者)だと説明されています。
白(善)を考察するにあたり、「内と外の白(善)を考察(弁別)して」と説明されていますが、内は内処(眼耳鼻舌身意)であり、外は外処(色声香味触法)を意味しています。これらを考察(弁別)すると、それらはすべて無常、苦、無我であることが知られるのです。そこでこれらのもの一切に執着すべきものは何もないという智慧が現れます。それは清らかな智慧なのです。そのため、賢者は黒(悪)白(善)を越えて行く者と表現されるのです。
内外の 善なるものを 考察し 越え行く人は 賢者と呼ばれる<526>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎7月18日(金)から7月22日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。
◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。
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仏教では
悪業は黒業と言い、
善業は白業と言います。
第3 大きな章 6.サビヤ経 17.
○中村元先生訳
526
内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、
清らかな知慧あり、
黒と白(善悪業)を超越した人は
まさにその故に(賢者)と呼ばれる。
○正田大観先生訳
532.(526)
内に、さらには、外に、両者の白きもの(内外の認識の領域・十二処)を〔あるがままに〕弁別して、
清浄の知慧ある者となり、
黒と白(悪業と善業)を超克した者
――真実なることから、如なる者は、『賢者』〔と〕呼ばれます。(17)
○パーリ語原文
531.
ドゥバヤーニ ウィチェッヤ パンダラーニ
‘‘Dubhayāni viceyya paṇḍarāni,
両者の 考察して 白いものを
アッジャッタン バヒッダー チャ スッディパンニョー
ajjhattaṃ bahiddhā ca suddhipañño;
内の 外の と 清らかな智慧あり
カンハン スッカン ウパーティワットー
Kaṇhaṃ sukkaṃ upātivatto,
黒を 白を 越えて行く人
パンディトー ターディ パウッチャテー タタッター
paṇḍito tādi pavuccate tathattā.
賢者と そのような人を 言う それ故に
○一口メモ
今回は遊行者サビヤさんの次の質問に対するブッダの解答です。「どうして<賢者>なのですか?(どのようにして、『賢者』と〔呼ばれるのですか〕。)」
今回も言葉の発音が似ている単語を活用した説法です。今回のキーワードはpaṇḍita(賢者)ですが、
paṇḍati(行く)と発音が似ています。ですから、paṇḍita(賢者)は「行く者」のように聞こえます。しかし、
賢者は単に行く者ではないのです。またpaṇḍitaと発音の似ているpaṇḍarāni(白いもの)を活用して、白いものとは善なるものを意味するのですので、白いものを考察して、行く者が賢者であるとしているのです。更に、それだけではなく、黒(悪)と白(善)を「越えて行く者」をpaṇḍita(賢者)だと説明されています。
白(善)を考察するにあたり、「内と外の白(善)を考察(弁別)して」と説明されていますが、内は内処(眼耳鼻舌身意)であり、外は外処(色声香味触法)を意味しています。これらを考察(弁別)すると、それらはすべて無常、苦、無我であることが知られるのです。そこでこれらのもの一切に執着すべきものは何もないという智慧が現れます。それは清らかな智慧なのです。そのため、賢者は黒(悪)白(善)を越えて行く者と表現されるのです。
内外の 善なるものを 考察し 越え行く人は 賢者と呼ばれる<526>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
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◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
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