在家とも 出家にも会わず 無執着 満足している 彼はバラモン<628>

○少年少女のためのスッタニパータ<628>
・・・
あの子はね、
一人遊びが好きみたい。
頭が良すぎて、
他の子と遊んでも、
つまらないみたい。


第3 大きな章 9.ヴァーセッタ経 35.

○中村元先生訳
628
在家者・出家者のいずれとも
交わらず、
住家がなくて遍歴し、欲の少い人、
──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。


○正田大観先生訳
634.(628) 
在家の者たちと、さらには、家なき者たちと、
両者ともに交わらず、
家なくして行く、求むこと少なき者を
――わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(35)


○パーリ語原文
633.
アサンサッタン   ガハッテーヒ
Asaṃsaṭṭhaṃ    gahaṭṭhehi,
交際しない     在家者にも

アナーガーレーヒ チューバヤン
anāgārehi       cūbhayaṃ;
出家者にも     また両者にも

アノーカサーリン  マッパッカン
Anokasārim     appicchaṃ,
家なく遊行する   少欲な

ハマハン  ブルーミ ブラーフマナン
tamahaṃ   brūmi   brāhmaṇaṃ.
彼を私は  呼ぶ   バラモンと


○一口メモ
この詩の解説は、また2008年12月の記事が適切だと思い最掲載します。「また」と言うのは2009年10月にも掲載したからです。以下引用。

「この詩を何度か読んでどのように感じますか?
普通、あまり共感しないのではないかと思います。私が出家する何年か前、スマナサーラ長老にこの詩について、質問しました。『理解できない』という質問だったと思います。スマナサーラ長老は無理に説明せずに、『阿羅漢のことですからね。』とだけ応えられたと思います。これは阿羅漢の境地なのだから、分からなくて当然と思われたのではないかと思います。

この詩に反発を感じる人はたくさんいると思います。これらの人々は人間は人々と積極的に交わるべきだ。それが人間のあるべき態度だと思っているのです。 また、この詩に反発は感じなくとも、このような人生は惨めだ、不幸だと思う人もいるでしょう。あるいは、この詩に共感するが、このような人生を自分には出来ない、またはしたくないと思う人もいます。しかし、これこそ人生の理想だと、しみじみと共感し、このような生き方をしたいと思う人もいると思います。なぜ、このような受け取りかたの違いがでるのでしょうか?生き方や幸福に対する考え方が違うからでしょう。

今だから言えますが、私が出家した初めは、人生の苦しみから抜け出すために、輪廻の苦しみから解脱すためにと決意して出家したのですが、やはり一人になると寂しいのです。それまでは孤独などあまり感じてはいませんでしたが、若者のように人生は孤独だなとつくづく思いました。また、これは寂しいという感じは私だけではないのだと言うことも分かりました。人はみんな寂しいのだと思いました。

しかし、仏教を学んで出家したわけですから、私たちはいろいろな物や人々に依存して、執着して生きているから、寂しいのだということも分かっていました。それが実感できるようになったのです。人は人に交わりたいと思い、誰にも交わらない生活は嫌だと思うのが当然だろうと思いました。ですから、上の詩のようにだれにも交われないことには共感できないだろうと思います。

一方、出家したことによる家族や職場の人間関係などへの執着がなくなった穏やかな生活への満足感というものも現われました。ですから、『在家者にも出家者にも また両者にも交わらず 無執着で満足している人』の安らぎはなるほどとも思えるのです。

この詩の『無執着(アノーカサーリン)』は直訳すれば『家なくして遊行する』ですが、パーリ語辞書によれば、それは無執着のことであるとありますのでこのように訳しました。また『満足(アッピチャ)』の直訳は『小欲』です。しかし、スマナサーラ長老によれば、アピッチャには喜びの意味があると言われますので、小欲より満足の方が適切だと判断しました。辞書にも『満足』も記載されています。無執着とは阿羅漢のことであり、満足こそが幸福です。このことが分かるように訳の事情を述べました。」以上少し修正して引用しました。

在家とも 出家にも会わず 無執着 満足している 彼はバラモン(404)<628>
http://76263383.at.webry.info/201303/article_3.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎雨安居中のゴータミー精舎では火曜日の夜の自主瞑想の始めに「初法輪経」を唱えることにしました。興味がある方は是非参加してください。心が穏やかになり、「眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明らかになり、光が生じる」気がします。(初転法輪経の言葉)


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

SRKWブッダ
2014年09月28日 09:23
人の究極の境地(=ニルヴァーナ)を聞いて、今はそれを理解できなくても、敢えてその境地を否定することが無いならば、いつかはこの究極の境地に到達することを得るだろう。

そこに至ったとき、もろもろの如来が達し、説くところのこの境地(=ニルヴァーナ)が、本当に人の最高の境地であることを知ることになる。そこに至れば苦悩がない。そこに至れば憂いがない。

しかもこの究極の境地は、誰と交わることが無くても、自ら達することができる境地なのである。

***
ボン
2014年09月28日 09:28
最近読んでいます。本日の少年少女のためのスッタニパータの「頭が良すぎて・・・」という表現に頭の悪いと自分を評価している身としては、気になります。頭が良すぎるというより、一人でも満足しているので、交わる必要がないと自分では解釈しました。それが子供向けだと・・・適当な表現が今は、浮かばないです。
あすか
2014年09月29日 07:37
人との交流は多くの刺激を伴いますから
無しで済めば、さぞ穏やかでしょうね。

在家としてはそうもいきません。
必要な交流、有意義な交流、
そして、執着しないことを
こころがけます。
こころざし
2016年08月18日 06:07
日常で、誰かと交わり、その相手に「あなたが居て良かった」みたいな状況になりたい、みたいなものを求めて行動する・・方が普通にいます。その度合いが強いとだいたい疎んじられるのですが、高齢者福祉の現場でコールボタンを繰り返し押してくる方の対策として頭に入れておきたい要素です。
こちらで学び、そのようなものを超える大切さを実感しています。自分にもあるそのような姿勢をサティで把握し、そして乗り越えれるようにしたいです。