貪欲と 怒りと慢心 悪意とを ポロリと落とした 彼はバラモン<631>

○少年少女のためのスッタニパータ<631>
・・・
本当に智慧ある人は
冷たい人のように見えても
その人にために
利益になることをするのです。


第3 大きな章 9.ヴァーセッタ経 38.

○中村元先生訳
631
芥子粒が錐の尖端から落ちたように、
愛著と憎悪と高ぶりと
隠し立てとが脱落した人、
──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。


○正田大観先生訳
637.(631) 
芥子〔粒〕が錐の先から〔落ちる〕ように、
彼の、しかして、貪欲(貪)が、かつまた、憤怒(瞋)が、
さらには、〔我想の〕思量(慢)が、〔虚栄の〕偽装(覆)が、〔それらの思いが〕打ち倒されたなら、
わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(38)


○パーリ語原文
636.
ヤッサ   ラーゴー  チャ  ドーソー  チャ
Yassa    rāgo     ca   doso     ca,
その人の 貪欲     と  怒り     と

マーノー マッコー  チャ  パーティトー
māno    makkho   ca    pātito;
慢心    悪意が  と    落ちた人

サーサポーリワ   アーラッガー
Sāsaporiva      āraggā,
芥子粒の ように  きりの先の

タマハン  ブルーミ  ブラーフマナン
tamahaṃ   brūmi   brāhmaṇaṃ.
彼を私は  呼ぶ   バラモンと


〇一口メモ
今回の偈はダンマパダ407番と同じですが、その因縁物語は次の通りです。

兄のマハーパンタカ長老は阿羅漢果を得たのに対して、弟のチューラパンタカは、一つの短い偈を四か月かけても暗記できませんでした。その原因は、過去世のひとつカッサパ・ブッダの時代に優秀な弟子であったにもかかわらず、愚鈍な比丘を見下し、嘲笑った悪業によるものでした。仲間の比丘たちから「愚鈍である」と言われている弟に対して、兄は還俗をすすめました。弟は兄の言葉を受け入れてサンガを出ようとしたとき、突然ブッダが現れました。ブッダはチューラパンタカに白い布を渡し「『汚れを取ること、汚れを取ること。』と念じながら、床を拭きなさい。」と命じられました。チューラパンタカはブッダの言葉を忠実に守り、実践する中で悟りを得たのでした。

後日、比丘たちは「なぜ、兄のマハーパンタカは弟にサンガをでるようにすすめたのだろう。阿羅漢になっても、怒りなどが残っているのだろうか?」と話しあっていました。ブッダは「比丘たちよ、阿羅漢には貪欲や怒りなどは残っていない。マハーパンダカは弟のことを思ってあのように助言したのだ。」と答えられ、「きりの先の芥子粒のように、貪欲と怒りと慢心と、悪意を落とした人、彼を私はバラモンと呼ぶ」と説かれました。

阿羅漢はすべての煩悩をなくし、欲や怒り無智などはないということです。また、ダンマパダ401番(スッタニパータ625番)の詩でも述べられていたように、「きりの先の芥子粒のように」ポロリと、自然に、無理なく煩悩が落ちるということもポイントのように思います。つまり、智慧が現れれば、煩悩は無理なく、自然に落ちるということです。これが智慧の開発が必要な理由です。

何度も述べますが、智慧はヴィパッサナー瞑想で開発できるのです。あらゆる現象に無常・苦・無我を発見することで、智慧が開発されるのです。
(2013年3月の解説より)

この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
2008年12月の解説
http://76263383.at.webry.info/200812/article_15.html

2009年10月の解説
http://76263383.at.webry.info/200910/article_20.html

2013年3月の解説
http://76263383.at.webry.info/201303/article_5.html


貪欲と 怒りと慢心 悪意とを ポロリと落とした 彼はバラモン<631>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎雨安居中のゴータミー精舎では火曜日の夜の自主瞑想の始めに「初法輪経」を唱えることにしました。興味がある方は是非参加してください。心が穏やかになり、「眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明らかになり、光が生じる」気がします。(初転法輪経の言葉)


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

SRKWブッダ
2014年10月01日 07:55
見かけで、一瞥して、賢愚を知ることはできない。明敏に見える愚者がおり、愚鈍に見えて実は学識ある賢者がいるからである。

安穏の近くにあって安穏を知らず、安穏ならざるもの(=苦悩)に安住しながらしかも嬉々として世間を生き、笑いながら(自らを滅ぼす)悪を為す者。そのような者こそ暗愚と呼ばれる。愚者は、豊富な知識によっても、研ぎ澄まされた見識によっても、暗愚を離れることができない 。暗愚な者は、根本の学識に欠けているからである。

ことわりをこころに知る明知の人は、決して遠いところにあるのではない安穏のよすがを、誰に頼ることなく自ら見いだして、知識によらず、見識によらず、経験によらず、その他いかなる何ものにもよらずしてこの暗愚を離れ、学識ある人と呼ばれる。かれは、精進して学識をさらに豊かならしめ、ついに一切世間を出てこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと入り、二度とこの苦悩の世には戻っては来ない。

***
あすか
2014年10月01日 10:51
慢、
覆、
今日も手強いテーマが。

手強く感じるということは
智慧の発達が、まだまだ。
ということかもしれません。




こころざし
2016年08月19日 07:22
智慧がある方は、ある意味では(無意味に?)フレンドリーでなく、シャープな印象を受ける事があります。ですが的確に情報を把握し、しっかりと対処行動はとっている気が致します。違うのは「私が○○しました、を出そうとしない」でしょうか。智慧を持って生きれるようにしたいです。