村離れ 瞑想学んで 一人居る 聖者の道を 一人で楽しむ<718>及び<719>

○少年少女のためのスッタニパータ<718.719.>
・・・
「自分は孤独だ」と
嘆いている君よ。
真の大人は
一人を楽しむものだ。


第3 大きな章 11.ナーラカ経 40.41.

○中村元先生訳
718
独り坐することと
<道の人>に奉仕することを学べ。
聖者の道は独り居ることであると説かれている。
独り居てこそ楽しめるであろう。


719
そうすればかれは十方に光輝くであろう。
欲望をすてて瞑想している
諸々の賢者の名声を聞いたならば、
わが教えを聞く者は
ますます恥を知り、信仰を起すべきである。


○正田大観先生訳
724.(718) 
独り坐すことを学ぶように。
かつまた、沙門の従事すること(瞑想)を〔学ぶように〕。
独りあることは、〔覚者によって〕寂黙〔の道〕と告げ知らされた。
もし、独りあるなら、〔あなたは、独りあることを〕喜び楽しむであろう。
しかして、〔あなたは〕十方に光り輝くであろう。(40)


725.(719) 
慧者たちの評判を聞いて、
欲望を捨て去る瞑想者たちの〔評判を聞いて〕、
そののち、しかして、恥〔の思い〕を、さらには、信〔の思い〕を、
わたしにしたがう者は、より一層、作り為すように。(41)


○パーリ語原文
723.
エーカーサナッサ    スィケータ
Ekāsanassa        sikkhetha,
一人坐ることを     学ぶがよい

サマヌーパーサナッサ   チャ
samaṇūpāsanassa      ca;
沙門の観想を        また

エーカッタン    モーナマッカータン
Ekattaṃ       monamakkhātaṃ,
独住は       聖者の道と呼ばれる

エーコー     チェー    アビラミッサスィ
eko         ce       abhiramissasi;
一人(ならば)  もし      楽しむであろう

アタ     バースィヒ   ダサディサー    
Atha     bhāsihi      dasadisā.
その時   輝くであろう  十方に

724.
ストゥワー    ディーラーナン   ニッゴーサン
Sutvā       dhīrānaṃ       nigghosaṃ,
聞いて      賢者たちの     評判を

ジャーイーナン    カーマチャーギナン
jhāyīnaṃ        kāmacāginaṃ;
瞑想する        欲望を捨てて

タトー     ヒリンチャ   サッダンチャ
Tato      hiriñca      saddhañca,
それから   恥と       信と

ビッヨー     クッベータ  マーマコー
bhiyyo      kubbetha    māmako.
ますます    するがよい  信奉する者は   


○一口メモ
今回の二つの偈の解説をする前に、中村先生訳と正田先生訳の違いについて説明します。719偈の中村先生訳の一行目が、正田先生訳の(718)偈の終わりの五行目になっているということです。ですから、718偈と719偈を続けて読めば同じになります。このようなことは他のところでもありますが、スッタニパータの原本は番号振られているわけではなく、後の編集者の判断で分けられたための現象です。少し詳しく言えば、普通パーリ語の偈は四行か六行でできています。しかし、この五行目は例外ですから、前の偈に入れるか後ろの偈に入れるかが問題になるのです。そのことを踏まえて、今回は二つの偈を同時に学びましょう。

ブッダのナーラカさんへの説法は更に続きます。

「独り坐すること」とは遠離して、人々が住む村から離れて、静かなは林などで瞑想修行をすることです。

「<道の人>に奉仕することを学べ。」について、中村先生は沙門を<道の人>といつも訳されます。修行者にはバラモン階級の修行者とそれ以外の修行者がいましたので、バラモン以外の修行を沙門と呼んでいたようです。また仏教の修行者を沙門と呼ぶ場合があります。またある時はブッダを指して沙門と呼ぶ時があります。この場合の<道の人>はブッダを指していると考えた方がよいと思います。といいますのは、「奉仕すること」と訳されていますが、注釈書によれば、「観想すること」です。「沙門の観想」とはブッダの教える瞑想方法なのです。

まとめて「独り坐することと<道の人>に奉仕することを学べ。」を検討すると、前半は村から離れてという身体の遠離と後半はブッダの瞑想方法による人々に依存しない心の遠離を学ぶようにということになります。

「聖者の道は独り居ることである」とはすなわち、聖者の道(行)は身体と心の遠離であると述べられたのです。そしてそうすれば、「独り居てこそ楽しめるであろう。」ということになるのです。

そして、718偈の終わりに置くか、719偈の始めに置くかで問題になる「そうすればかれは十方に光輝くであろう。」です。一人瞑想をして、それを楽しむ賢者は東西南北、その間の四方と上下で十方に光輝くというのです。

十方に光輝くとはどういうことでしょうか。本当に光りが出て輝いているとあまりそのように考えない方がよいと思います。評判が高まるとより現実的に考えましょう。欲望を捨てて瞑想をする人を人々は称賛するのです。

しかし、そのような評判、うわさを聞いて、あなた(ナーラカさん)は浮つくことなく、ますます恥を知り、謙虚になって、仏法僧への信(確信)を確立するように教えたのです。


村離れ 瞑想学んで 一人居る 聖者の道を 一人で楽しむ<718>

欲離れ 名声あれど 恥を知り ブッダの弟子は 信を高める<719>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎12月29日(月)から1月4日(日)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

あすか
2014年12月25日 07:24
せっかく人々に賞賛されるほどになっても、
慢心でいっぱいになってしまっては。
あらかじめ危ない所を注意しておくとは
さすがお釈迦様ですね。
りんご
2014年12月25日 09:31
瞑想は一人で行うこと。慣れてくれば、楽しくなると思います。
カエルくん
2014年12月25日 21:27
世間の中で、人に交わって暮らすことは、誘惑の連続のように思います。
人からの誘い、広告など、いつも「まるでマーラのようだ」と思います。

大事なのは、遠離ですね。
思い出しました。
こころざし
2016年09月17日 19:15
以前私は孤独や暇が嫌いで、何かイベントや仲間を探す状態が常にありました。心にあったのは寂しさや不安定さだったと思います。
冥想修行を多少でもするようになり、先の状態でいる自分から成長したいと心より実感しています。
現在は、仕事休みの日に何かを求めて探すのではなく「では冥想しますか」との時間を作る事を楽しいと思う事があります。寂しくて何かを求める・・は無縁?な感じがします。もっと修行して、心を成長させたいです。