苦しみは 食を縁にして 発生す 食が消えれば 苦しみ消える<747>及び<748.749.>

○少年少女のためのスッタニパータ<747前の散文と747.748.749.>
・・・
人間の食べものは物質ですが、
神々の食べものは精神的なものです。
アスラの食べものは怒りです。
地獄の生命の食べものは苦しみです。


第3 大きな章 12.二種の観察経 24前の散文と24.25.26.

○中村元先生訳
 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

747
およそ苦しみが起るのは、
すべて食料を縁として起る。
諸々の食料が消滅するならば、
もはや苦しみの生ずることもない。

748
「苦しみは食料の縁から起る」と、
この禍いを知って、
一切の食料を熟知して、
一切の食料にたよらない、

749
諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、
省察して(食料を)受用し、
理法に住するヴェーダの達人は、
もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。


○正田大観先生訳
 (11)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は〕存在するのでしょうか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、一切は、食という縁から〔発生する〕』ということで、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかるに、諸々の食の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』ということで、これが、第二の随観となります。〔比丘たちよ、〕このように、正しく……略……。しかして、他にも、〔世の〕教師たる方は、こう言いました。

753.(747) 
「それが何であれ、苦しみが発生するなら、
一切は、食(迷いの生存の動力源となるもの)という縁から〔発生する〕。
諸々の食の止滅あることによって、
苦しみの発生は存在しない。(24)

754.(748) 
『苦しみは、食という縁から〔発生する〕』〔と〕、
この危険を知って、
一切の食を遍知して、
一切の食に依存なき者となる。(25)

755.(749) 
無病〔の境地〕を正しく了知して、諸々の煩悩の完全なる滅尽あることから、
〔食について正しく〕究明して〔正しい食のあり方に〕慣れ親しむ者は、
法(正義)に依って立つ者となり、〔真の〕知に至る者となり、
〔虚構の〕名称(概念)に近づくことがない(名づけを離れた存在となる)」と。(26)


○パーリ語原文
752.
ヤン    キンチ    ドゥッカン    サンボーティ
‘‘Yaṃ   kiñci     dukkhaṃ    sambhoti,
およそ   何であれ  苦は      発生する

サッバン    アーハーラパッチャヤー
sabbaṃ     āhārapaccayā;
すべて     食を縁にして

アーハーラーナン    ニローデーナ
Āhārānaṃ         nirodhena,
食が            消滅するならば

ナッティ    ドゥッカッサ   サンバウォー
natthi      dukkhassa    sambhavo.
ない      苦の       発生は


753.
エータマーディーナワン     ニャトゥワー
‘‘Etamādīnavaṃ         ñatvā,
この禍を              知って

ドゥッカン   アーハーラパッチャヤー
dukkhaṃ    āhārapaccayā;
苦は      食を縁にして

サッバーアーハーラン    パリンニャーヤ
abbāhāraṃ           pariññāya,
一切の食を          熟知して

サッバーハーラマニッスィトー
sabbāhāramanissito.
一切の食にたよらない


754.
アーローギャン     サンマダンニャーヤ
‘‘Ārogyaṃ        sammadaññāya,
無病を          正しく悟って

アーサワーナン    パリッカヤー
āsavānaṃ        parikkhayā;
煩悩を         滅尽して

サンカーヤ    セーウィー    ダンマットー
Saṅkhāya     sevī        dhammaṭṭho,
省察して     親しむ      法に立つ者 

サンキャン    ノーペーティ    ウェーダグーティ
saṅkhyaṃ     nopeti        vedagū’’ti.
数えることに   近づかない     聖智の達人は・と    


○一口メモ
今回は11番目のテーマです。それは食料です。仏教用語では食(アーハーラ)です。

食料によって、多くの悩みが生じることは分かります。人々は食べるために、あくせく働くのです。食べなくては生きていけないと思っているからです。その際多くの悩みが生じます。食料がない状態であれば、それも大変な苦しみです。しかし、最近は、食べ過ぎによる苦しみも生じています。成人病と言われている多くの病気は食事が原因である場合が多いのです。

ですから、食料から苦が生じることは分かります。しかし、仏教では物質的な食料(段食)、以外にも、触触、意思食、識食という四つ食を考えています。生命が生きていくために必要なエネルギー源を食料(食)と言います。

例えば、神々は人間や動物が必要な物質的な食料は必要がないのですが、その変わりに、非物質的、精神的なエネルギー源(食料)が必要です。ある神々は喜びをエネルギー源として生きています。これらの神々は喜びのある所に集まります。また、善き人々を喜ばして、そのエネルギーを頂いているのです。また阿修羅たちは怒りをエネルギー源として生きていますから、怒りのある所に集まります。地獄にいる生命は苦しみをエネルギー源として生きています。辛いことですね。

実は人間は、段食と言われる物質的な食料をだけ食べて生きているわけではありません。段食は身体を維持するする食べ物ですが、人間の心を維持する食べ物として、上に述べた触食、意思食、識食をエネルギー源として摂取しているのです。

触食は触によるエネルギー源です。これから感覚が生まれ、渇愛が生まれ、生きていて、輪廻を繰り返します。意思食は、何かしたいというエネルギーです。これもなくては心は死んでしまいます。識食は知ることによるエネルギー源です。人間の心はこれらをエネルギー源にしているのです。

例えば、何かを食べる時、物質的な食べ物だけを食べているわけではありません。眼で食べ物を見たり、鼻で香を感じたりします。これは触食しています。また、食べたいと思います。その時、意思食をしています。また食べてみると、これは旬の野菜だとか、これは食べたことがないとかいろいろ事を知ります。これは識食です。これらを総合的に食べているのです。

そこで本題に入ります。段食からも苦を生じます。これがなければ飢餓になります。多すぎれば病気になります。触食は触によるネレルギーですから、二種の観察経の六番目のテーマの触の項で述べました。すべての苦は触を縁にして生まれると知りました。意思食は行(潜在的形成力)をエネルギー源とする食料です。すべての苦は潜在的形成力から生まれることを学びました。これは四番目のテーマでした。また識食は五番目のテーマの識(識別作用)です。これを縁にしてすべての苦が生まれることも学びました。このように、食料は物質的ものだけでなく、精神的な食料も、縁にして苦が生まれるのです。

これらの一切の食料にたよらない、依存しなければ、苦が生まれることがないのです。無限に食料を欲しがる衝動が消えると(解脱すると)、輪廻も消えるのです。

精神的な食料から離れ、依存しない、断ち切ることにつて既に述べましたが、最近物質的な食料ですら、いらない、人間は食べなくても生けていけると主張している人々がいて、その具体的な例も示されています。仙人は食べ物を食べないと言われていますから、嘘ではなさそうです。私達は食べることを止める必要はないでしょうが、食べ物をあれこれ選り好みしたり、こだわったりすることを止めることは必要です。

最後になりましたが、749偈の無病とは、病気でないことですが、ここでは涅槃を意味していることを知っておいてください。


苦しみは 食を縁にして 発生す 食が消えれば 苦しみ消える<747>

苦しみは 食を縁にして 発生す このこと知って 食に頼らぬ<748>

煩悩の 消滅の故 無病なり 省察により 人神から離れる<749>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

あすか
2015年01月10日 07:25
食もまた逃げる事の出来ない
毎日向き合わねばならない課題。
理想論で挑んでも上手くいかず
むしろ欲や怒りが増すばかり。

穏やかな心で過ごすにはどうするか。
心と体をよく観察し、
トライ&エラーを繰り返しながら
より良い方法を学んでいくしかあるまい。

今日も生きとし生けるものが
幸せでありますように。
りんご
2015年01月10日 07:56
食事は、接食、意思食、識食も
含んでいるのですね。

奥が深いと思います。
カエルくん
2015年01月10日 09:32
口から入る物だけが食べ物ではない、という教えを知ったとき、とても納得しました。
見てきれいなもの、触れて心地よいもの、思いやりなどの慈悲のエネルギー、そういったものに触れると心が明るいエネルギーを得て元気になるのを感じます。
反対にネガティブな感情に触れると、心が萎縮する。
いかに、環境に左右されながら生きているかということだと思います。
マイナスなエネルギーに触れて、自分も不善心を育ててしまわないように、身辺をきれいにしておくよう心掛けていますが、今日の偈は、そもそも食に執着をしないようにと戒めているのだと思いました。
身の丈修行者
2015年01月10日 15:06
食事にも、執着しないような生き方をしたいなと思います。

身の丈修行者
2015年01月11日 09:25
無農薬や体に良いもの、より美味しいもの・より高いもの・・等々食に関する事も欲求が容易に拡大するような印象があります。

また家族で行った海辺の温泉旅館の料理がとっても美味しくて、またこのような思いをしたいな・・と思いました→これも欲のポテンシャルが回転しているんだろうなと感じます。

今の自分の身の丈で満足するような生き方を→出来ればもう少し精進を進めるように精進したいです。
こころざし
2016年09月23日 19:21
食べ物をより楽しもう!と思いますと、すぐに色々な苦が出現する状況になると感じます。また、自分が食べるものの質的な基準ラインを引いてしまいますと、それが守れないとたちまちストレスになるように思います。そのような状況に陥るのではなく、謙虚に食べれるものを有難く頂戴するようにしたいです.