見聞や 思考で対立 しない人を 世間の人は 理解できない<793>
○少年少女のためのスッタニパータ<793>
・・・
意見が対立したら
相手が正しいと思った方が安全です。
少なくとも自分の意見は
智慧ではないということだから。
(喧嘩しないで済みます。)
第3 八つの詩句の章 4.清浄八詩句経 6.
○毎田周一先生訳
793.
彼はどんなことに向っても
見たり学んだり考えたりしたことで自分を武装せず
物事をありのままに見 明るい心で生活してゆく――
だからこの人は世間の人がこういう人だと掴もうとしても 決して摑まえられない人である
○中村元先生訳
793
かれは一切の事物について、
見たり学んだり思索したことを制し、支配している。
このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、
この世でどうして妄想分別させることができようか。
○正田大観先生訳
800.(793)
あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、
彼は、一切の諸法(事象)にたいし、敵対という有り方を離れている。
このように見る者である彼を、〔迷妄の覆いが〕開かれた者として行じおこなう者を、
ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。(6)
○パーリ語原文
799.(793)
サ サッバダンメース ウィセーニブートー
Sa sabbadhammesu visenibhūto,
彼は 一切の物事について 敵対することがない
ヤン キンチ ディッタン ワ スタン ムタン ワー
yaṃ kiñci diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā;
それが 何であれ 見たり 或は 聞いたり 考えたり 或は
タメーワ ダッスィン ワイワタン チャランタン
Tameva dassiṃ vivaṭaṃ carantaṃ,
このように 見る者は 隠すことなく 行ずる
ケーニーダ ローカスミン ウィカッパイェッヤ
kenīdha lokasmi vikappayeyya.
何によって・この 世間に 分別するであろうか
○一口メモ
今回は見たり、聞いたり、考えたことで清められることがないことについて述べた偈です。
この偈では、三つのパーリ語で三先生の工夫のあとがみられます。先ず、visenibhūto(敵対することなき)を、毎田先生は「自分を武装せず」と訳されました。中村先生は「制し、支配している」と訳されました。正田先生は「敵対という有り方を離れている」と訳されました。ここからブッダの意図を読み取って下さい。
ちなみに、注釈書の注釈には次のように書かれています。Seni(魔軍)とは心中の賊のことで、不善、煩悩の類である。魔軍を離れているとは、「煩悩の魔軍を離れている」、「煩悩を離れている」、結局は、「捉われない」ということになろう。
次は、「vivaṭaṃ carantaṃ」(隠すことなく行ずる)です。毎田先生は「明るい心で生活してゆく」、中村先生は「覆われることなしにふるまう人」、正田先生は「〔迷妄の覆いが〕開かれた者として行じおこなう者」と訳されました。
そして最後は「vikappayeyya」(分別するであろうか)です。これは三者三様で訳者の意図も異なっているように思います。
毎田先生は「掴もうとしても 決して摑まえられない」と訳しました。
中村先生は「どうして妄想分別させることができようか」と訳しました。
正田先生は「想い描くというのだろう(執着の対象として想い描かれることもない)」
毎田先生と正田先生は似ていますが、中村先生は少し異なります。
私は毎田先生の訳のように、「世間の人は見たり学んだり考えたりしたことで自分を武装しない人を決して摑まえられ人である」という意味だと理解しています。このような人は清らかの人で覚った人、解脱した人と言っていいのではないでしょうか。さて、皆さんはどのように考えるでしょうか。
最後の行の意味はとりにくいですが、この偈の意図は「見たり、聞いたり、考えたことで清められることがない」ことについて述べたものだと思います。
見聞や 思考で対立 しない人を 世間の人は 理解できない<793>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎2月10日(火)から2月16日(月)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。
◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
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意見が対立したら
相手が正しいと思った方が安全です。
少なくとも自分の意見は
智慧ではないということだから。
(喧嘩しないで済みます。)
第3 八つの詩句の章 4.清浄八詩句経 6.
○毎田周一先生訳
793.
彼はどんなことに向っても
見たり学んだり考えたりしたことで自分を武装せず
物事をありのままに見 明るい心で生活してゆく――
だからこの人は世間の人がこういう人だと掴もうとしても 決して摑まえられない人である
○中村元先生訳
793
かれは一切の事物について、
見たり学んだり思索したことを制し、支配している。
このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、
この世でどうして妄想分別させることができようか。
○正田大観先生訳
800.(793)
あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、
彼は、一切の諸法(事象)にたいし、敵対という有り方を離れている。
このように見る者である彼を、〔迷妄の覆いが〕開かれた者として行じおこなう者を、
ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。(6)
○パーリ語原文
799.(793)
サ サッバダンメース ウィセーニブートー
Sa sabbadhammesu visenibhūto,
彼は 一切の物事について 敵対することがない
ヤン キンチ ディッタン ワ スタン ムタン ワー
yaṃ kiñci diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā;
それが 何であれ 見たり 或は 聞いたり 考えたり 或は
タメーワ ダッスィン ワイワタン チャランタン
Tameva dassiṃ vivaṭaṃ carantaṃ,
このように 見る者は 隠すことなく 行ずる
ケーニーダ ローカスミン ウィカッパイェッヤ
kenīdha lokasmi vikappayeyya.
何によって・この 世間に 分別するであろうか
○一口メモ
今回は見たり、聞いたり、考えたことで清められることがないことについて述べた偈です。
この偈では、三つのパーリ語で三先生の工夫のあとがみられます。先ず、visenibhūto(敵対することなき)を、毎田先生は「自分を武装せず」と訳されました。中村先生は「制し、支配している」と訳されました。正田先生は「敵対という有り方を離れている」と訳されました。ここからブッダの意図を読み取って下さい。
ちなみに、注釈書の注釈には次のように書かれています。Seni(魔軍)とは心中の賊のことで、不善、煩悩の類である。魔軍を離れているとは、「煩悩の魔軍を離れている」、「煩悩を離れている」、結局は、「捉われない」ということになろう。
次は、「vivaṭaṃ carantaṃ」(隠すことなく行ずる)です。毎田先生は「明るい心で生活してゆく」、中村先生は「覆われることなしにふるまう人」、正田先生は「〔迷妄の覆いが〕開かれた者として行じおこなう者」と訳されました。
そして最後は「vikappayeyya」(分別するであろうか)です。これは三者三様で訳者の意図も異なっているように思います。
毎田先生は「掴もうとしても 決して摑まえられない」と訳しました。
中村先生は「どうして妄想分別させることができようか」と訳しました。
正田先生は「想い描くというのだろう(執着の対象として想い描かれることもない)」
毎田先生と正田先生は似ていますが、中村先生は少し異なります。
私は毎田先生の訳のように、「世間の人は見たり学んだり考えたりしたことで自分を武装しない人を決して摑まえられ人である」という意味だと理解しています。このような人は清らかの人で覚った人、解脱した人と言っていいのではないでしょうか。さて、皆さんはどのように考えるでしょうか。
最後の行の意味はとりにくいですが、この偈の意図は「見たり、聞いたり、考えたことで清められることがない」ことについて述べたものだと思います。
見聞や 思考で対立 しない人を 世間の人は 理解できない<793>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎2月10日(火)から2月16日(月)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。
◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
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この記事へのコメント
だから、事実(真理)とは違うと理解しました。
「悟った人は誰であれ、世間の中で妄想分別することはしない。しかし、人の主観ではその悟った人を掴むことは出来ないものだ」
やや強引にまとめてみました。
本日のワンギーサ長老の本文・解説内容、とても深みを感じます。なかなか言葉では分かりずらい所のような印象も感じます。
私的意見を恐れ入りますが記載させて頂きます。
以前ダンマサークルに参加させて頂いた時に「初期仏教で理論武装して大乗仏教のお坊様に戦いを挑むような方がいる時がありますが、これは最悪です」とある方から伺って、興味深く思いました。
大乗仏教のお坊様も日本の文化を守っておられる面もあると思いますし、尊重して共存するような接し方の方が宜しいかと思われます。
そのような面の他に、もしかするともっと大きな意味で「執着しない」という事があるのかなと(これまで学ばせて頂いて)感じます。
下記をワンギーサ長老の分かりやすい本文を引用して記載させて頂きます。
○「自分の見聞や思考」に執着しないとの点
○「相手の見聞や思考」に執着しないという点
○自分は正しく相手は間違っている・・というような認識
○そして、相手に(自分が持っている正しい(と思っている)事を)伝えなければ・相手を改善させてあげなければ・、とのような正義感?使命感??
そのような執着が生まれてその後の動きになってしまうように思います。
執着がない・・というのは「我がない」というように繋がるようにも思います。
大事な事を智慧で分かるように、執着しないように精進したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
それをくり返した後少し知恵が持て、文章で書いて見せる事になりました。そうしましたら、最初の着目点がずれていて、そこから常に平行線になっている・・と分かりました。言い争うのではなく違う対応の仕方、智慧の面からやって参りたいです。
https://noritsu.seesaa.net/article/201502article_13.html