境い目を 超えたバラモンは 欲望も 離貪もともに 執着しない<795>

○少年少女のためのスッタニパータ<795>
・・・
何かを知っているから偉いとか、
何かを知らないから偉くないとか
そういうことではないのです。
それにとらわれないことが大切です。


第3 八つの詩句の章 4.清浄八詩句経 8.

○毎田周一先生訳
795.
罪の及ぶ境を超えて道に達した人には
何かを知っているとか見ているとかいうことが この人を拘束することにならない
彼は貪ることにも夢中にならないが 欲を離れることにもむきにならない
彼にはこれがこの世で最上のことだといって摑まえるものが何もない


○中村元先生訳
795
(真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。
かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。
かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。
かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。


○正田大観先生訳
802.(795) 
〔執着の対象として〕執持されたものを、あるいは、〔あるがままに〕知って、あるいは、〔あるがままに〕見て、
〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門――彼には、〔執着の対象が〕存在しない。
〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない。
彼には、この〔世において〕、「〔これこそ〕最高である」〔と〕執持されたもの(執着の対象)が存在しない。ということで――(8)


○パーリ語原文
801.(795)
スィーマーティゴー    ブラーフマノー    タッサ   ナッティ   
Sīmātigo          brāhmaṇo       tassa    natthi,
境界を超えた       バラモンは      彼には   ない

ニャトゥワー    ワ    ディスワー   ワ    サムッガヒータン
ñatvā        va     disvā      va     samuggahītaṃ;
知って       或は   見って     或は   執着することが

ナ    ラーガラーギー   ナ     ウィラーガラットー
Na    rāgarāgī        na     virāgaratto,
ない   貪りを貪ること   ない    離欲に染まること

タッスィーダ     ナッティ      パラムッガヒータンティ
tassīdha        natthī       paramuggahītanti.
彼にはこの世で   存在しない   最上だと固執するものは


○一口メモ
今回は「清浄八詩句経」の最後の偈になります。最後の偈はこの経のまとめです。

ところで、パーリ語原文の始めの言葉はSīmātigo brāhmaṇo(境界を超えたバラモンは)ですが、境界を超えたとは何でしょうか? 毎田先生は「罪の及ぶ境を超えて道に達した人には」、中村先生は「(真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている」、正田先生は「〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門」と訳されました。罪や罰が問題にならない世界に到達した人、善悪を超えた世界入った人、この人は煩悩の世界を超えているということです。前回794偈の始めに説明した「彼等」です。清浄な人、解脱した人です。

このような人の境地がこの偈で述べられているのです。このような人は何かを知ったことで、何かを見たことで、それに拘束されることはない。それらから放たれていて、自由であるのです。逆に言えば、見たり、聞いたり、考えたりしたことで彼等は清らかになったわけではないのです。

また次の言葉は圧巻です。「彼は貪ることにも夢中にならないが 欲を離れることにもむきにならない。」(「かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。」)
このような境地になりたいものですね。

最後は「彼にはこれがこの世で最上のことだといって摑まえるものが何もない。(かれは《この世ではこれが最上のものである》と固執することもない。)」という句で結ばれています。そして、この句の「最上」という言葉が次の「最上八詩句経」につながるのです。では「最上」は何なのでしょうか?それは明日から始まる経で説かれるのです。スッタニパータはよくできていますね。


境い目を 超えたバラモンは 欲望も 離貪もともに 執着しない<795>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎2月10日(火)から2月16日(月)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

2015年02月15日 04:33
善悪を越えた境地は仏教ならではです。

善因善果、、ここに世の中にある幸福感が集約されてるように思います。

個人が結果的に幸福感を味わえる行為を模索し実践することです。

各人によって内容の違いこそありますが、目指す方向は同じです。

しかしそれらは、全て人間であること、輪廻の世界であるに過ぎない。

そこから脱出する、、そこが仏教の特色の一つだと思います。
りんご
2015年02月15日 08:18
欲を離れることにもむきにならない。欲を離れることは、仏教的にはきっと良いことだと思います。

ただ、そこに執着、こだわりみたいな働きが出てくるのに注意することが大切なのだと理解しました。

良いと思っている、もしくは当然と思っていることは自覚しづらいと思います。ですので、気をつけていないと、ひっかかってしまう点だと感じました。
浜中
2015年02月15日 10:24
>次の言葉は圧巻です。「彼は貪ることにも夢中にならないが 欲を離れることにもむきにならない。」 

むきになることは、欲でしょうか? むきになったら欲を離れていないということでしょうか? 欲を離れる(悪から離れる)というのは、それを目的にしてしまうと執着になるということだと理解しました。「欲(悪)から離れる」のは目的ではなく、執着をなくすことが目的ではないでしょうか?
しかし、また「執着をなくす」ことにムキになってしまいそうです(笑)。どうしたらいいのでしょうか?
きっと考えすぎですね。今を怠けず頑張ります。
 
身の丈修行者
2015年02月15日 19:12
仏教は中道を教えて下さっていると学びましたが、当初は「真ん中が良いんだよ」みたいな・一休さんが橋の真ん中を渡った話?のような印象でいました。
ワンギーサ長老の分かりやすい解説の「かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない・・」これが中道なんだろうなと感じます。
分かっていないながら「欲を貪ることなく・・」の方はなんとなくイメージがつきます。ですが「離欲を貪ることもない・・」の方のイメージは難しい印象を感じます。
どちらも超越している、そんな中道が分かるように修業に精進したいです。
身の丈修行者
2015年02月15日 19:27
浜中様のコメントを拝見してこちらを投稿させて頂きます。
「むきになる」のは
○好き・欲しいからくる「貪」
○嫌い・離れたいからくる「瞋」
のどちらか働いているのではとの印象を感じます。
執着をなくすことにムキになってしまう・・のは自我から認識した事に囚われているという事になるように感じます。
対応は冥想修業・・という事になるでしょうか。
勝手な意見を申し訳ございません。
素適な夜となりますように。
こころざし
2016年10月05日 22:07
何かを知っていると偉い、等との認識を持ちますと、人と比較して優越感や劣等感を持つことに繋がると感じました。私事ですが、妻は私とは全く違う学歴の持ち主ですが、その友人がその学歴に伴った人達で、それを意識すると一緒にいるのが変?と思えるほど違和感・劣等感?を感じた事がありました。こちらで学びを頂き、今は、そんなものではないよと思えます。
執着しない事、精進して智慧で持てるようになりたいです。