熱望し 希求する者 怖れあり 覚者は何も 求めず怖れず<902>

○少年少女のためのスッタニパータ<902>
・・・
普通の人の死は終わりではなく、
それは新しい生の始まりです。
解脱した人は生まれ変わらないので
生がなくなり、死もなくなるのです。


第4 八つの詩句の章 13.大集積経 8.

○毎田周一先生訳
902.
熱望し 希求するものには
その計らいゆえに おののきがある
この世で 死も生もないもの――
彼は何におののき 何をもとめよう


○中村元先生訳
902
ねがい求める者は欲念がある。
また、はからいのあるときには、おののきがある。
この世において死も生も存しない者、
──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。


○正田大観先生訳
909.(902)
まさに、〔何ものかを〕切望している者には、諸々の渇望されたもの(欲望の対象)があります。
あるいは、また、諸々の想い描かれたもの(妄想)にたいする動揺があります。
〔しかしながら、渇望なく、何ものも切望しない〕彼には、ここに、死滅と再生は存在せず(渇愛なき聖者に輪廻は存在せず)、
彼は、何によって、動揺するというのでしょう、あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう」〔と〕。(8)


○パーリ語原文
908.(902)
パッタヤマーナッサ    ヒ    ジャッピターニ
Patthayamānassa     hi    jappitāni,
求めている者には    実に  望まれたもの(があり)

パウェーディタン   ワーピ    パカッピテース
pavedhitaṃ       vāpi      pakappitesu;
怯えることが      或はまた  計らいのある者には

チュトゥーパパートー   イダ   ヤッサ     ナッティ
Cutūpapāto         idha    yassa      natthi,
死と再生が         ここに  その人には  ない

サ    ケーナ   ウェーデッヤ    クヒンワ   ジャッペ
sa     kena     vedheyya      kuhiṃva    jappe.
彼は   何に    おびえ        或は何を   望むだろうか


○一口メモ
この偈は、前々回及び前回の900偈及び901偈を別の側面から述べたものです。すなわち、苦行や見解、学問、思想なので清らかさや寂静を求めようとする人々は、それらを得ようとする欲望のために、心が汚れ、得られないかもしれないかもしれないという不安や恐れが生じます。

しかし、そのようなことを熱望しない者、希求しない者には何も怖れることがありませんと述べられています。また、そのような者は何を怖れ、何を求めるだろうかと反語の形で述べられています。

この偈の三行目の「この世で死も生もないもの(この世において死も生も存しない者)」は、清らかさや寂静を熱望したり、希求しない者を意味しているのです。この世において死も生も存しない者とは解脱した覚者なのです。輪廻を乗り越え輪廻しない人なのです。

解脱してない者の死には再生(生)があります。しかし、解脱した者には再生(生)がありませんから死はないのです。すなわち死も生もない者とは輪廻をしない人、解脱した人を言うのです。また、解脱した覚者は既に清らかさや寂静を得ているので、清らかさや寂静を希求しないのです。


熱望し 希求する者 怖れあり 覚者は何も 求めず怖れず<902>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎特別連絡:6月12日(金)から6月16日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

2015年06月02日 05:33
翻訳文からは、特定の何か(苦行から清浄を求めるなど)というより、「ねがい求めたり、希求する」ということのそれ自体について言及してるように思いました。
身の丈修行者
2015年06月02日 07:49
おはようございます。
自己啓発系に居た頃そこには、不安・心の動揺のある自分の様な方がいらっしゃいました。
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「・・学問、思想・・清らかさや寂静を求めようとする人々・・得ようとする欲望のため・・心が汚れ、得られないかもしれない・・不安や恐れが生じます」心に響きます。本当にそうだなと実感致します。
真摯にこちらで学ばせて頂いて、そして欲望を持たずに修行をして参りたいです。
欲望を持たないと言いますと(欲望に繋がっていく)思考・煩悩を生じさせない様に実況中継実践をしていく意味になりますでしょうか。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
kempsford
2015年06月02日 18:06
こんにちは。
今回の偈で説かれている「欲望」とは意味が異なりますが、スマナサーラ長老が「『感情』には気を付けるように」と諭してくださっていることが想起されました。なぜかと申しますと、「嫌い」という感情の裏には、必ず「好き」があるからです。即ち「好き」があると、必ず「嫌い」が生じることになります。「欲」と「怒り」という不善心所が、表裏一体になっています。これは日常生活(特に職場)で、頻繁に経験します。「欲望」の怖さを、日々ひしひしと痛感しています。
御指導ありがとうございました。
エル
2015年06月03日 06:47
はじめてスッタニパータを読んだ時、一番解釈が難しかったのは「生も死もない」でした。私はとても観念的に解釈していましたが、今日の解説で解脱を求める人にとっていかに現実的なことであるかよくわかりました。
こころざし
2016年11月11日 20:48
何か嫌な事をされた時にその相手に「地獄に落ちろ!」みたいな思考を投げつける事は、日常ではある程度普通にあるように思います。また例えばおんぼろ車に乗り・おんぼろ家にしか住めない人生の時に「来世では高級車に乗り・高級住宅に住めますように」との思考?願望?的エネルギーを持つように思います。そのように生んだ・生まれたエネルギーは消える事無く回転し、輪廻に繋がっていくように感じます。そんなエネルギー自体を生まない・持たない様になり、そして輪廻の輪を着れるようにしたいです。