わがものと 思う気持ちの ない人は 何がなくとも 嘆くことなし<950>

○少年少女のためのスッタニパータ<950>
・・・
自分のものが何もなかったら
どんなに不安でしょう。
自分のものが何もなくとも、
嘆き悲しまない人は
どんな人なのでしょう。


第4 八つの詩句の章 15.武器を執ること経 16.

○毎田周一先生訳
950.
名と形あるものを 
すべてわがものとするのを止め
何かがないといって 悲しむことのない人
――こういう人は世にあって 老いることなき人である


○中村元先生訳
950
名称と形態について、
<わがものという思い>の全く存在しない人、
また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、
──かれは実に世の中にあっても老いることがない。


○正田大観先生訳
957.(950)
彼に、全てにあまねく、名前と形態(名色:現象世界)について、
わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)が存在しないなら、
しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず、
彼は、まさに、世において、〔何ものも〕失いません。(16)


○パーリ語原文
956.
サッバソー     ナーマルーパスミン
‘‘Sabbaso      nāmarūpasmiṃ,
あまねく      名称と形態において

ヤッサ    ナッティ    ママーイタン
yassa     natthi      mamāyitaṃ;
彼に     存在しない  我がものという思いが

アサター        チャ    ナ    ソーチャティ
Asatā          ca     na     socati,
存在しないからとて  また    ない   悲しま(ない)

サ    ウェー   ローケー    ナ   ジーヤティ
sa     ve      loke       na    jīyati.
彼は   実に    世において  ない  失わ(ない)


○一口メモ
一行目、二行目「名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人」(中村先生訳)の、「名称と形態」とは何を意味しているのか明らかにしておく必要があります。

名称はパーリ語ナーマの訳で精神的なもの、人間においては心を意味します。また形態はパーリ語ルーパの訳で物質的なもの、人間においては肉体を意味します。ナーマ・ルーパと合わせて個人の意味で使われます。或は正田先生の訳にあるように、名前と形態を現象世界と理解される場合があります。

「名称と形態」を個人と取るか、現象世界と取るかでニュアンスが少し変わります。個人と取れば、五蘊(色受想行識)のすべてに<わがものという思い>がないということになり、無我が意識されます。一方、現象世界と取れば、自分の外に<わがものという思い>がないということになり、無所有が意識されます。

無我であれば、自分というものがないのですから、自分の物がないのは当たり前です。それ故に悲しむことはありません。また、無所有の人は、元から自分のものがないのですから、自分のものがないことで悲しむことがないのです。悲しまないということに関しては同じです。

この偈もう一つ問題になることは、最後の言葉です。毎田先生、中村先生は「老いることがない。」としていますが、正田先生は「〔何ものも〕失いません。」としています。パーリ語の jīyatiに、「老いる」と「失う」と意味があるから、どちらにも訳せるのです。

「失わない」であれば、自分のものは始めからないのですから、何も失わないということは素直に分かります。しかし、無我の人あるいは無所有の人は老いることがないということは、どういうことか考える必要があります。解脱した人、涅槃に達した人は「死ぬことがない」=「不死」であるという表現は度々出てきますが、「老いることがない」という表現は少ないと思います。ここでこの問題について深く考察できませんが、「肉体が老いること」と別の次元を考えているのだと思います。

この偈と同様の趣旨を、スッタニパータ861偈で述べられています。また、ダンマパダ367偈は一行目から三行目まで同じ文章です。時間のある時に是非参照して下さい。

持物が 何もなくとも 悲しまず あくせくせぬ人 寂静者なり<スッタニパータ861>
http://76263383.at.webry.info/201504/article_22.html

心にも 肉体にも 我がものと 思う心がない 彼は比丘(ダンマパダ367)
http://76263383.at.webry.info/201301/article_28.html


わがものと 思う気持ちの ない人は 何がなくとも 嘆くことなし<950>



○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎特別連絡:7月17日(金)から7月21日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kemsford
2015年07月20日 04:09
おはようございます。
「無我」とは別に、「無所有」というとらえ方がある、点はとても新鮮に感じました。
ただその結果は「無我であれば、自分というものがないのです」・「無所有の人は、元から自分のものがないのです」であり、たどり着く先としては「悲しまないということに関しては同じです」という点にも、なるほどと腑に落ちました。ブッダの教えは、常に一貫しています。「ブッダの教えに曖昧はありません」という常々強調されるスマナサーラ長老の説法が鮮明に想起されました。
御指導ありがとうございました。
2015年07月20日 04:22
名称と形態についての理解が深まりました。

ありがとうございます。
みき
2015年07月20日 06:03
おはようございます。
「無我」「無常」ゆえに所有物は何もない。失う物(者)は何もない。言葉では理解しても、現実で物事に執着するようでは、本当に分かったことにはなりません。精進が要ります
身の丈修行者
2015年07月20日 07:29
おはようございます。
無我と無所有について興味深く思いました。どちらも執着しない方向になる印象を感じます。
また、本文を拝見し「肉体が老いることと別の次元」もインパクトを感じました。
ニュアンスが違うかもしれませんが、肉体が老いて→死に至る迄に心を成長させて、そして解脱を目指したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
SRKWブッダ
2015年07月20日 11:00
あった筈の栄光が失われ、できる筈のことができなくなる。他人からは「みすぼらしく、面倒だな」と思われる。これが老いである。

修行完成者は、時を経ても栄光がさらに増す。そして、行為は大団円の結末を見る。彼の徳は老いることが無い。

老いた者は、彼が何者であろうとも嫌悪、侮蔑され、動乱時には邪魔者扱いされて打ち捨てられる。その一方で、大徳は、好意を受け、尊敬され、動乱時にこそ尊重される。平時であっても、人々は彼の口からためになること──どうすれば解脱できるのであるか?──を聞きたいと願う。

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こころざし
2016年11月27日 10:32
私がある・・という自我から生まれる諸々の苦しみ、実感致します。私というものは錯覚、と思いますとすっと楽になります。日常で自分が・・という錯覚で苦しみを持つのではなく、錯覚との気づきを持ちながら、目の前の必要な事を実行出来る様になりたいです。