他の人と 比べられない 聖者らは 利己心離れ 安らいでいる<954>

○少年少女のためのスッタニパータ<954>
・・・
もし、宇宙人がいたら、
彼は他の人間と同じだとか、
劣っているとか、
勝れているとか、
比較できるだろうか?



第4 八つの詩句の章 15.武器を執ること経 20.

○毎田周一先生訳
954.
静かな人は 自分を等しいものの仲間であるとも 劣ったもの 
あるいは勝れたものの仲間であるともいわない
そうして安らかに 利己心を離れて 
取ることもなければ また捨てることもない


○中村元先生訳
954
聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、
勝れた者のうちにいるとも言わない。
かれは安らいに帰し、慳(ものおし)みを離れ、
取ることもなく、捨てることもない。


○正田大観先生訳
961.(954)
牟尼(沈黙の聖者)は、等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。
増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。
彼は、寂静なる者です。物惜しみ〔の思い〕を離れた者です。
〔特定の何かを、執着の対象として〕執取せず、〔排除の対象として〕放棄しません」〔と〕。ということで――(20)


○パーリ語原文
960.
ナ     サメース       ナ    オーメース
‘‘Na    samesu        na    omesu,
ない   等しい者達の中で  ない  劣った者達の中で

ナ     ウッセース      ワダテー    ムニ
na     ussesu        vadate      muni;
ない   優れた者達の中で  説か(ない)  聖者は


サントー    ソー    ウィータマッチャロー
Santo      so      vītamaccharo,
寂静なる者  彼は    物惜しみを離れた者


ナーデーティ    ナ    ニラッサティーティ
nādeti        na    nirassatī’’ti.
取らない      ない   捨て(ない)・と



○一口メモ
この偈で「武器を執ること経」が終わります。ですから、この偈は全体のまとめ、結論の偈の筈です。そこで、一行目、二行目に述べられていることで、ブッダは何を言われたいのでしょうか?
そこの理解が難しいので、毎田先生、中村先生の訳と正田先生の訳が大きく異なります。

私は毎田先生の訳がブッダの意図を正確に伝えていると思います。しかし、この訳だけではその意図をくみ取れないと思います。ブッダは、聖者は人間の中で、同じ人々だとも、劣った人々だとも、勝れた人々だとも比べられないと述べているのです。つまり聖者は人間を超えた存在だと述べておられているのです。同じ、劣った、勝れている等と比較できるのは同じ種類の間でできることなのです。そのことを、このように表現しているのです。聖者は人間でないということを言いたいのです。普通の人間が持っている本能を持っていないから、人間でないのです。

人間は安らかでないし、利己心を離れていない。しかし、聖者は安らかであり、利己心を離れているのです。そして、自分のものにしようとすることはないのです。また、自分のものと言う意識がありませんから、捨てるということもありません。この偈で「武器を執ること経」は終わります。

他の人と 比べられない 聖者らは 利己心離れ 安らいでいる<954>


では、どのようにこのような結論に至ったかをタイトルの短歌で復習しようと思います。

敵と見る その思いから 武器をとり 武器をとるから 恐怖が生まれる<935>
反目し 震えおののく 人々を 目のあたりにし 戦りつ覚える<936>
世の中は どこを見ても 不確実 どこもかしこも 苦のみがあった<937>
最後には 互いに反目 行き詰まる 彼らの心に 矢が刺さていた<938>
苦しみの 原因の矢に 気づければ 矢を引き抜いて 落ち着けるだろう<939>
いろいろな 修行はあるが こだわるな 欲の本質 究めるべきだ<940>
誠実で 傲慢でなく いつわらず 悪口言わず 利己心超えよ<941>
睡眠と 倦怠落ち込み 打ち勝って 高慢な態度 捨て去るべきだ<942>
嘘つかず 物に執着 しないこと 慢心せずに 粗暴になるな<943>
古いもの 新しいものも 喜ばず 死も悲しまず 愛にも引かれぬ<944>
欲望は 大きな激流 大津波 はからい妄想 欲の泥沼<945>
真実を 離れることなく 陸に立ち すべてを捨てた 彼は寂静者<946>
物事の 道理を知って 捉われず 正しく振舞い 羨むことなし<947>
欲望と 執著超えると 解脱する 悲しみはなく 心配もない<948>
過去涸らし 未来をなくし 現在を 掴まぬならば 寂静となる<949>
わがものと 思う気持ちの ない人は 何がなくとも 嘆くことなし<950>
わがものだ ひとのものだと いう意識 持たない人は 悲しまないよ<951>
不動者は 次の美点あり 嫉視なく 貪り持たず 万物に平等<952>
不動者は 智慧の目開き 法を見て 為すことなくて 平安を見る<953>
他の人と 比べられない 聖者らは 利己心はなれ 安らいでいる<954>

以上です。明日からは「サーリプッタ経」が始まります。


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年07月24日 04:11
おはようございます。
煩悩のなかでも「慢」は厄介です。不還果にまで至った聖者でさえ、まだ「慢」が残存しています。「慢」は「比べる」ことです。その「慢」がなくなる阿羅漢果とはどういった境地なのかと、ずっと興味がありました。
本日、それについて、先生から教えて頂きました。「つまり聖者は人間を超えた存在だと述べておられているのです」。
なるほど、「慢」がない境地とはこういうことだったのですね。また目が開けました。御指導ありがとうございました。
2015年07月24日 04:28
普通の人間の持ってる本能を持ってないとは、想像もつきませんが、ブッダの教えが頼りです。
SRKWブッダ
2015年07月24日 05:43
煩悩は、「本能に基づく心の動揺」と定義される。この煩悩を断じているので、〈道の人〉は動揺することのない人=完き静けさにある人と呼ばれる。

このような人は、世俗を離れていて、世俗のことがらを執して取ることもないし、自分には要らないものであるからといって敢えて捨てることもない。たとえば、大人が子どもじみたオモチャを執して子供から取り上げることもないし、大人には何の興味もないものであるからといって世界中のオモチャを捨ててしまえなどと断じたりしないようなものである。(捨ててしまえなどと断じることも、実は執していることに他ならない。)

***
こころざし
2015年07月24日 08:03
おはようございます。身の丈・・改め、こころざしです。
日常で「この人よりは勝っている」等を思う事は少なからずあります。その逆の、この人より劣っていると思う時はさらりと流し、勝っている方はクローズアップして安心するような自分がいます。
そのような状況を減らし、本文の「人間は安らかでないし、利己心を離れていない。しかし、聖者は安らかであり、利己心を離れている・・」が出来る割合を少しずつ増やして参りたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
みき
2015年07月24日 20:11
こんばんわ、ワンギーサ先生。
「静かな人」とは心も静かなのでしょう。
私もできるだけ無駄話をしないよう気を付けだしましたが、内心は決して静かではありません。欲や怒り、嫉妬など様々な感情が渦巻いています。他人と比べている自分がいますね。しかし、まずは形から入れではないですが、何か行動を始めることも大切だと思います。人が聞いたらそれは違うのではと思いになるかもしれませんが。ご講義ありがとうございました。
エル
2015年08月02日 18:02
聖者とは、生物学的には人間であっても、本能を超えているため、外界からの刺激に対して人間とは違った反応系をもった人間なのかなと思いました。数百万年、数千万年かかってもできるかどうかわからない進化を、修行によってその人生のうちに完了させるということだと思います。
こころざし
2016年11月29日 20:12
人間は利己心があり、安らかでない状態だと、自分を見て実感致します。安らかでありたい気持ちは100%ですのに、利己心を捨てられず安らかになれないのは、愚かな印象を感じます。私の様な愚者はもしかしたら人間として比較の対象になるのかもしれませんが、そんな低次元な所で比べても、価値がないように思います。そのような状況を超えた、利己心がない世界にいきたいです。