無所有の 成立するもとを 見たならば 喜びという 束縛がある<1115>

○少年少女のためのスッタニパータ<1115>
・・・
それが最高の境地かどうか分かるためには
真実を究めようとする意志と
自分自身に妥協しない態度が必要でしょう。


第5 彼岸に到る道の章 15.ポーサーラ経(ポーサーラ学生の問い)4.

○中村元先生訳
1115
無所有の成立するもとを知って、
すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、
それをこのとおりであると知って、
それから(出て)それについてしずかに観ずる。
安立したそのバラモンは、
この<ありのままに知る智>が存する。」


○正田大観先生訳
1122.(1115) 
無所有〔の境地〕の発生を知って、
『愉悦は、〔人を〕束縛するものである』と〔知ります〕。
このように、このことを証知して、
そののち、そこにおいて、〔あるがままの無常を〕観察します。
〔梵行の〕完成者にして婆羅門たる彼には、
この真実の知恵があります」〔と〕。ということで――(4)


○パーリ語原文
1121.
アーキンチャンニャサンバワン   ニャトゥワー
‘‘Ākiñcaññasambhavaṃ        ñatvā,
無所有(の境地)の発生を      知って

ナンディー    サンヨージャナン   イティ
nandī       saṃyojanaṃ       iti;
喜びは      束縛           と

エーワメータン     アビンニャーヤ
Evametaṃ        abhiññāya,
このように・これを   熟知して

タトー    タッタ      ウィパッサティ
tato      tattha     vipassati;
それから  そこで     観察する

エータン    ニャーナン    タタン    タッサ
Etaṃ      ñāṇaṃ       tathaṃ    tassa,
この      智が        真実の    その       

ブラーフマナッサ    ウスィーマトーティ
brāhmaṇassa       vusīmato’’ti.
バラモンには      完成した・と


○一口メモ
今回の偈も難しいので一応解説しますが、間違っているかもしれません。皆さんはこれを参考意見として読み、ご自分で探究して下さい。

ポーサーラ学生は1113偈で「内にも外にも「なにものも存在しない」と観ずる人の智を」ブッダに尋ねましたが、その時の「なにものも存在しない」は「物質的なかたちの想いを離れ、身体を捨て去り」という条件が付いていました。しかし、今回の1115偈の始めの言葉「無所有」はパーリ語Ākiñcaññaですが、無色界の禅定である無所有処の境地を意味しています。これではまだ如来(ブッダ)の境地ではないのです。

そこで、修行者はこの無所有処の境地を静かに観察するのです。そうするとその境地のもとに喜びがあることを知ります。すなわち自分はこの境地を喜んでいることを知るのです。そして「この喜びが束縛である」と言う智慧が現れます。この智慧の現れたバラモン(修行者)には、「ありのままに知る智」が現れ、修行が完成するのです。

無所有の境地は、このポーサーラ学生達の師匠であるバーヴァリ・バラモンもこの境地を願って南国に向った(976偈)のように、当時の修行者達の目指すべき目標だったのです。しかし、単に「何ものも存在しない」という境地だけであるならば、それが最高の境地であるか分からないのです。前偈1114偈の学んだように、心のありさまを知り尽くすことが必要なのです。

今回で「ポーサーラ経」は終わります。明日からは「モーガラージャン経(モーガラージャン学生の問い)が始まります。


無所有の 成立するもとを 見たならば 喜びという 束縛がある<1115>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年12月05日 04:43
おはようございます。
「しずかに観ずる/〔あるがままの無常を〕観察します」という語句から私の脳裏に浮かんだのは、「五自在」です。「たとえ禅定に至っても、五自在(引転自在・入定自在・在定自在・出定自在・観察自在)を練習しないと、次のステップにはいけない」とは、スマナサーラ長老がアビダンマの講義で説かれていることです。そこでは更に、「たまたま禅定に至っただけではダメなのです」と念を押されています。ヴィパッサナー実践の真髄とは、「まず『知る』、そしてそこから『出る』、それらを『観ずる』」のサイクルではないかと思えます。そうやって、あくまでも客観的に観続けることに尽きる、のではないでしょうか。私も修業の過程で迷うことは多々ありますが、そこから抜け出すのも、結局「観る」に戻るしかありません。冷徹なようであっても、これが「科学的アプローチ(スマナサーラ長老法話)」なのだと思います。今回の偈文を読むと、そんなことが想起されました。ところで、私事で大変恐縮なのですが、明日より数日の間、パソコンから離れる予定です。本年七月に父が死んだのですが、その納骨に出掛けてまいります。お墓は九州にあるので、少し時間をかけてまいるつもりです。「生老病死」の「無常」を、わが身のことと念じる機会と致します。本日も、ご指導ありがとうございました。
エル
2015年12月05日 08:44
 自分で探究すること、妥協しないことは、今の私に一番必要なことだと思います。今日の短歌を手帳に書いて戒めとします。

 明日は大分初期仏教デーに参加したいと思います。
こころざし
2015年12月05日 14:30
本文を拝見して難しさを感じました。「無所有処の境地」の実体験がないので長老の解説を元に(凡夫レベルで意味があるか?ですが)考えました。
喜びが生まれた状態に束縛されている事に気が付く事で、喜びを捨てた→ありのままに見れる智慧に繋がっていくとの解釈で良いでしょうか。
私事ですが、1時間の座る冥想等が終わった後、とても気持ちの良い楽を感じる時があります。その気持ち良さに気がついて・捕らわず、それを超えてしまうような感じになるかもと思いました。
無所有処の境地を何時か心レベルで分れるようになりたいです。
ワンギーサ長老・皆様の午後~も素晴らしい日となりますように。

SRKWブッダ
2015年12月05日 15:43
~自分はこの境地を喜んでいることを知るのです。そして「この喜びが束縛である」と言う智慧が現れます。この智慧の現れたバラモン(修行者)には、「ありのままに知る智」が現れ、修行が完成する~ :

釈尊いわく 「ニルヴァーナによりニルヴァーナを知り、ニルヴァーナを思惟せず、ニルヴァーナにおいて思惟せず、ニルヴァーナより思惟せず、このニルヴァーナが自分のものとは思惟せず、ニルヴァーナについて喜ばない。(中部経典)」

まさしくこの通りであると知った修行者は、すでに修行完成者である。実際、ニルヴァーナはまさしくこのようなものである。

***
シンプルなネズミ
2015年12月05日 15:43
喜びは栄養です。人間と喜びは不可分ですが、喜びはストレスとも背中合わせです。
子供に暴言を吐いたり虐待する親を見ると宇宙の限界を感じます。同時に子供にベッタリの親も子供を窒息させます。
理想が過ぎる親の場合、子供は世の中はそんなに素晴らしい場所ではないと言いたがっているのではないでしょうか。
そんな子供の心もとどのつまりは母親のお腹に帰りたいという願望に回収されるのでしょう。しかしそれさえ本音ではないと気付く人は稀なのでしょうか。そんな人の受け皿がすでに仏教という形で用意されていたことがやはり驚きです。

幸せでありますように。