虚妄知って 愛欲を離れ 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<再11>

○ワン爺さんの独り言<11>
・・・
いくつになっても
愛欲はなくならない。
解脱すれば
なくなるのだろう。


第1 蛇の章 1蛇経 11.

○スマナサーラ長老訳
行き過ぎることもなく止まることもなく
[世界(存在)において]一切は虚妄であると知って、
愛欲を離れた修行者は、
蛇が脱皮するように
この世とかの世とをともに捨て去る。


○毎田周一先生
行き過ぎずまた後れず
「一切はこれ虚妄」と情欲を離れた
その修行者は この世とかの世を共に捨て去る
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように


○中村元先生訳
走っても疾(ハヤ)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、
この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


○正田大観先生訳
行き過ぎず、戻り過ぎず、
「これは、一切が真実を離れたものである」と、貪り(貪)を離れた、
その比丘は、此岸と彼岸を捨てる
――蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


○パーリ語原文
ヨー   ナッチャサーリー ナ   パッチャサーリ
Yo    nāccasārī      na   paccasārī,
者は  行き過ぎず     ない  戻り過ぎ

サッバン   ウィタタミダンティ    ウィータラーゴー
sabbaṃ   vitathamidanti      vītarāgo ;
「一切は   虚妄だ この」と    愛欲を離れた
 
ソー   ビック     ジャハーティ オーラパーラン
So    bhikkhu   jahāti      orapāraṃ,
その   比丘は   捨てる     この世あの世を

ウラゴー  ジンナミワッタチャン  プラーナン
urago    jiṇṇamivattacaṃ     purāṇaṃ.
蛇が    老化した皮を      古い


○一口メモ
今回の偈に関して書かなければならないことは前回の「一口メモ」に書いてありましたので、それを再掲載します。(以下再掲載)

今回の偈と昨日の違いは、「貪欲(ローバ)を離れた」が「愛欲(ラーガ)を離れた」になっている所です。

パーリ語辞書によれば、ローバとラーガには次の訳語が掲載されています。ローバ:貪、貪欲、欲。ラーガ:貪、貪欲、染。どちらもあまり変わりないようです。注釈書にもこの違いについて明確な説明はありません。スマナサーラ長老の解説では、ローバとは「あれもこれも欲しい」という意味で、ラーガは愛欲であると、区別しておきましょうと書かれています。

ラーガ(愛欲)以外の言葉は昨日と同じ言葉ですから、昨日の説明を繰り返すことになりますが、全体の意味を復習しましょう。

「ナッチャサーリー ナ パッチャサーリ」(行き過ぎることもなく止まることもなく)はサティ(念)のことでした。サティがあれば、考え過ぎて、妄想することもなく、頑張り過ぎや怠けることもなくなります。

サティがあれば、正しく観ることができ、一切が虚構、虚妄であり、実体のない、執着に値しないことが分かるのです。しかし、このことはなかなかわかることではなく、本当に「ナッチャサーリー ナ パッチャサーリ」(行き過ぎることもなく止まることもなく)を実践した方のみが悟ることなのです。

この偈ではそれを愛欲と言う言葉で確かめます。自分に愛欲があるだろうか? 「世間虚仮」(世界は虚構(虚妄)であることを本当に悟った方は一片の愛欲はありません。その方は当然、蛇が脱皮するように、この世とあの世をともに捨て去るのです。

愛欲に関するダンマパダの詩は幾つかありましたが、284番の詩を想い出しましょう。
284 少しでも 性欲あれば 男らは 母牛慕う 子牛のようだ
284 http://76263383.at.webry.info/201211/article_17.html
284番の詩は、森の草むらのように煩悩が少しでも残っていれば執着が残ることを教えています。それを母牛の乳にしたう子牛を例えて、男に女に対する性欲が少しでもあれば、執着が残ることを示しています。この場合は、性欲すなわち愛欲が残っていますので、蛇が脱皮するように、この世とあの世をまだ捨てられないでいるのです。(以上再掲載)


○前回のこの偈の解説

虚仮(コケ)知って 愛欲を離れ 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<11>
http://76263383.at.webry.info/201304/article_11.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2016年01月23日 03:44
おはようございます。
「愛欲」ですぐに想起するのは、スッタニパータ110偈における、先生のコメントです。「若い女にとって、老いぼれ爺より若い男の方が好ましいのです。爺はどうしても、嫉妬するのです」。だから「男は女に注意しなければいけないのです」。ワンギーサ長老の数ある教えのなかでも、とても強く印象に残っており、私の「座右の銘」とさせて頂いております。この機会に、改めて自分を戒めます。本日も、ご指導ありがとうございました。
巾着飴入れ
2016年01月23日 04:24
世の中で行われてるから
何かいいことがあるんじゃないかと
そう思うこともあるでしょう。
何かいいことがあるから行ってるのだろうと
そのように感じ皆が皆、何かいいことがあるかのように生きてるでしょう
職業でもそうです、あの仕事のほうがいいんじゃないか、この仕事のほうがと、何かどこかにいい事があるんじゃないかと、皆が皆同じようにして生きてます
人間でもそうですどこかに完璧な人がいるんじゃないかと思い、その求めてるとことが愛欲かもしれません
全ては自分の認識するもの、それのみが今の自分の世界であります、仕事中は遊び仲間はいないのと同じです、仕事中に自分にある世界は、その仕事だけです
自分の今の認識範囲が、自分の今の世界と言って間違いないでしょう
智慧とは、苦を軽減させること、それが智慧だと思います
自分の心が強い弱いは関係ない
智慧を磨くためにどれだけ努力できるか
智慧が生まれたとき、コロッと自分の中の悪魔は倒せます

 
っということだと確信します

こころざし
2016年01月23日 06:58
おはようございます。
愛欲は自分の中に沢山あると思います。それを捨てれているか?と思いますと、否と即答致します。
ですが、自分なりに客観的に観察をしていく中で、自我が錯覚という所等から、愛欲も錯覚なのでは・・との気づきは多少持てています。
どんどん実践して、そして心レベルで愛欲を捨てれるようになりたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
シンプルなネズミ
2016年01月23日 22:17
私がどこかしらボーイッシュな要素を持つ女性に惹きつけられてしまうのは否定できない事実なのでしょう。どこかでそういう人の姿が目の端に入るとまたその場所に戻って見てしまうのです。
私がノーマルでありながらも比較的女性に近い性格をしていることに起因しているのかは分かりませんが、かなり根深い傾向だと思います。
私の貞操観念は強固ですが、その反面嫉妬心も強いでしょう。コテコテの日本人でありながら自分はラテン系ではないだろうかと思います。
私と付き合いたければ私が疑いに取り憑かれそうな言動は慎んでいただきたい(笑)

とにかく愛欲に基づく苦しみは最悪の部類に入ると思います。
時には生きていることの根本的な嫌悪感までも浮かび上がってしまう類のものです。
結局は仏教の無執着がどれほどの福音であるかを再認識する結果になると思います。
期待はずれのがさつな異性よりも価値のあるものはちゃんとあるということでしょう。

幸せでありますように。