出家にも 救い難い人 在家にも かかわり避けて 一人で歩く<再43>

○ワン爺さんの独り言<43>
・・・
いろいろな人がいますが、
どんな人にも執着しないで
水の流れのように
爽やかに付き合いたいものです。


43.第1 蛇の章 3.犀角経 9.

○毎田周一先生訳

出家の人の中にも広やかに人を容れない者があるが
在家の生活をする俗人には尚それが多い
人の家の子に特に執著することを止めて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう


○中村元先生訳

出家者でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。
また家に住まう在家者でも同様である。
だから他人の子女にかかわること少し、
犀の角のようにただ独り歩め。


○正田大観先生訳

出家者たちでさえも、或る者たちは救い難く、
また、家に住する在家の者たちも〔同様に救い難い〕。
他者の子たちにたいする思い入れ少なき者と成って、
犀の角のように、独り、歩むもの。


○パーリ語原文

ドゥッサンガハー   パッバジターピ    エーコー
Dussaṅgahā       pabbajitā  pi     eke,
救い難い        出家者で  さえ   ある者は

アトー    ガハッター   ガラマーワサンター
atho     gahaṭṭhā     gharam    āvasantā,
同様に   在家者     家に      住む

アッポッスッコー   パラプッテース    フトゥワー
appossukko       paraputtesu      hutvā,
無関心で        他人の子達に    なって 

エーコー   チャレー   カッガウィサーナカッポー
eko       care      khaggavisāṇakappo.
一人で     歩く      犀の角のように


○一口メモ
今回の偈の一、二行目の意味は次の通りです。真理を求め、人格を向上させようと出家した人間であっても、途中で、心変わりをしたか、修行の困難さに負けたのか、はじめから真理を求めるというよりは、名誉か、体裁を求めていたのか、そのことを本人も自覚をしてないだらしのない人間もいるのです。在家者にはそのような人間さらに多くなるということです。しかし、在家の人間ではそれは特別に非難されることでもないのです。当たり前のことですから。

三行目の「他人の子供達」の意味は、少し考えるところです。出家者は結婚していませんので、通常子供はいません。結婚後子供をできてから、出家した人は別です。子供のない出家者の中には、子供に対する愛着があり、弟子などを欲しくなる人もいるようです。そのような場合をこのように表現しているのかもしれません。

この偈も41番、42番と関連させて考えれば、「仲間の中にいれば」です。この仲間がどのような人間であるかが問題になります。出家者であっても、いいかげんで、だらしのない人間がいるのです。在家者であれば、さらにそのような人間は多くなります。そうであるならば、残念ながらそのような人間とかかわりを持つことなく、犀の角のように、一人でいくことになるのでしょう。


○前回のこの偈の解説

出家にも 救い難い人 在家にも かかわり避けて 一人で歩く<43>
http://76263383.at.webry.info/201305/article_13.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2016年02月24日 03:46
おはようございます。
Dussaṅgaha:摂益し難き。生活について、アーチャン・チャーはこうと説かれます。「帰依するとは、食料、衣料、住居、教えといった必要なもののすべてを師に委ねるということです。衣は、単に身体を保護してくれればよいものです。食料は、単に身体を維持するためのものです。私達は、こうした生活必需品に対する節度を知るべきです(手放す生き方)」。こう生きなければ、救われませんね。ご指導ありがとうございました。
こころざし
2016年02月24日 07:24
おはようございます。
求めれば容易に色々な方とのご縁が出来ますが、その相手の方の影響を嫌でも受けるように思います。特に良く思われよう・親しくなってもらおう欲が出ると、その後は苦になると思われます。そしてそれは心の成長成・・には繋がりにくい気が致します。
本当に尊敬できる師匠に学び、そして実生活で一人で自立して、教えて頂いた事を実践出来るように・心が成長できるようになりたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
シンプルなネズミ
2016年02月24日 07:34
俗物的権威主義者の問題点とは、案外この世界を不用意に信じ過ぎているということと、それほど自分を信じていないという部分にもあると思います。
絶望から逃げられるでしょうか?仮に絶望しなかったとしても「偽の期待」から逃れることはできないでしょう。「その人」にとっては永遠に。

私は馬鹿と言われればそうかもしれないですが、馬鹿な判断を避けようとする意志を捨ててしまえるかというと、やはり躊躇します。

幸せでありますように。
てくてく
2016年02月24日 17:30
こんばんは。
てくてくと申します。
書き込み失礼します。
誤りを恐れずに書きますことお許しください。

『無関心で』は、全く見ないふりをして、全く知らないふりをして、というような意味ではないと思いました。
目の前の相手をしっかりと見ているけれども、心配をしないで見ているということだと思いました。
なぜなら、修行者は、誰かに師事して修行者になるのではないと知っているからだと思います。それは、修行者の歩みが証すのだと思います。そうであってこそ、自らを信じたと同様に、目の前の相手をも信じられるのだと思いました。だから、修行者は心配しないで『無関心で』一人歩くのだと思いました。
エル
2016年02月24日 22:08
誰にも長所と短所があって、良い影響しか与えない人というのはまずいないと思います。だから、お付き合いは淡くほどほどにしておくのが無難なのだろうと思います。親しくなるきっかけがあると、欲がでてきます。程度をわきまえるのは難しいです。
たか坊
2016年05月08日 17:05
人と関わりを持てば、それだけ不自由になる!
少しずつ理解できた感じがします

今回も、明るく学べたコトを嬉しく思います♪