みずからは 清らかになり 賢明な 人と共にいて 苦を終わらせる<再283>

○ワン爺さんの独り言<283>
・・・
嫌いな人にも
幸せであるようにと思えば
仲良くできる。
仲良くできれば楽しくなるよ。


第2 小さな章 6.法行経(カピラ経) 10.

○中村元先生訳
283
みずからは清き者となり、互いに思いやりをもって、
清らかな人々と共に住むようにせよ。
そこで、聡明な者どもが、ともに仲よくして、
苦悩を終滅せしめるであろう。


○正田大観先生訳
286.(283) 
〔あなたたちは〕気づきある、清浄の者たちとして、
清浄の者たちと共に住むことを〔心に〕想い描け(その実現に努めよ)。
そののち、〔あなたたちは〕賢明なる、和合の者たちとして、
苦しみの終極を為すであろう。ということで――(10)


○パーリ語原文
283.
スッダー     スッデーヒ     サンワーサン
suddhā       suddhehi      saṃvāsaṃ
清浄な人々は  清浄な人々と    共に住む  

カッパヤウホー   パティッサター
kappayavho      patissatā,
はかるがよい    気づいて

タトー    サマッガー   ニパカー
tato      samaggā     nipakā,
それから  和合して     賢明に

ドゥッカッサンタン カリッサター ティ
dukkhass’antaṃ      karissathā ti.
苦の終極を        為すであろう と


○一口メモ
今回の偈で、法行経(カピラ経)が終わります。悪徳、偽物比丘のカピラをサンガから追い出しました。「追い出した」と言うと心優しいこのブログの読者は何か気になるようです。追い出さなくてもいいのではないかと思うようです。しかし、ここはとにかく追い出しました。

しかし、追い出しただけではいけません。自分自身の心を清らかにしなければいけません。清らかにするとはどういうことでしょうか。戒律(道徳)を守ることです。更に、どんなに嫌いな人がいても、その人の不幸を望んではいけません。戒律は守っても、心に悪意があってはいけません。そのような人は清らかな人とは言いません。

自分は清らかになって、他の清らかな人々と生活を共にしようと計画し、それが実現できるように努力することです。そうすれは、修行は順調に進み、苦の終極すなわち涅槃の境地に達するであろうと、ブッダは説かれたのです。


○前回のこの偈の解説

みずからは 清らかになり 賢明な 人と共にいて 苦を終わらせる<283>
http://76263383.at.webry.info/201311/article_28.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


○アラナ精舎雨安居日記 
2016.10.2.(日) 第75日目
 今日は久しぶりに晴れました。そして昼間は夏のように暑くなりました。事務局員の趙さんが座布団乾しやカバーの洗濯をしに来てくれたのですが、そのためには最適な日になりました。趙さんは功徳を積んでいる方だと思いました。
お昼はしばらく外国に出かけていた方が帰国して、今日は近所のレストランで食事のお布施をしてくれました。
食後は、精舎に来られた他の二人と私と三人で仏教談義をしました。そのうちの一人が仏教に批判的や友人に、「仏教では苦しみを捨てるために欲を捨てるように教えているが、そうすると楽しみや喜びのない人生になるのではないか」という言葉に反論できなかったと言いました。その回答は次の通りです。世間の人々は欲を満たすことが楽しみや喜びであると考えています。しかし、すべての欲を問題にすると誤解しますので、必要欲(生きるために必要な欲)と不必要欲(生きるためには不必要な欲)という言葉を使います。世間の人々は多くの場合、不必要欲が満たされなくて苦しんでいるのです。この不必要欲を完全に捨てた時にある、楽しみや喜びを経験したことはなく、知らないのです。しかしブッダはそれを体験し、「涅槃は究極の幸福である。」と教えているのです。多くの仏教修行者はそれを経験したことはなくとも、ブッダの教えを学び、理解しています。その真実を確信した時、彼らは涅槃を経験することになるでしょう。

人々は 欲満たされて 喜ぶが 欲ない時の 喜び知らぬ


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎私ワンギーサは、7月20日から10月15日まで、大阪府岸和田市のアラナ精舎で雨安居をしています。カテナ法要まではこちらに滞在することになります。それ以後についてはどこで生活するか分かりません。宜しくお願い致します。

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この記事へのコメント

kempsford
2016年10月03日 04:28
おはようございます。ご指導ありがとうございました。
正田先生訳の「清浄の者たちと共に住むことを〔心に〕想い描け(その実現に努めよ)」が、強く胸に響きました。先生のブログを毎日読ませて頂くと、「共に住む」のはできなくても、「共に学んでいる」と実感させて頂いています。また、それに加えて、「こころざし様」のように、日常生活や職場で、慈悲の実践に懸命に努力されている様子(3/Sep等)を知ることもできます。感謝・感謝です。ご指導ありがとうございました。
kempsford
2016年10月03日 04:30
〇法行経(カピラ経)10偈を終えて
いくら三蔵に通じていても、「傲慢」・「邪説」・「他人をののしる」という不善を行うと、地獄へ落ちます。ブッダの教えは、「苦しみの克服」にあります。実際、私自身も、その目的で励んでいます。その原点に戻れば、「争論」の愚かさは、一目瞭然です。いくら議論で勝利しても、苦しみは、消えるどころか、逆に増えてしまいます。ブッダの教えは、実践しなければ、なんの意味もありません。カピラ経で、その原点の大切さを改めて痛感致しました。これも、先生の再講義のおかげです。ありがとうございました。
こころざし
2016年10月03日 08:58
おはようございます。
どんな人にも幸いでありますように、との姿勢でいますと、自分の心が暗くならず、関係も悪くはならないと感じています。ただそこで、一緒の時間をどの程度設けるのか・その時々の良い加減とは思いますが、自らが清らかになれるようにする事と・清らかな人と一緒に過ごさせて頂けるような姿勢でいる方が良い流れになると実感しています。時間はすぐ経過してしまいますので、自分の心が清らかになる事を一番に今を大事にして参りたいです。
※kempsford様のコメントから学ばれている深さを感じています。そのような素晴らしい方のコメントを何時も先に拝見できます事、その後のコメント作成のアドバイスを頂けているように感じています。今後もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
てくてく
2016年10月03日 09:35
こんにちは。
てくてくと申します。
書き込み失礼致します。

「仏教では、苦しみを捨てるために欲を捨てるように教えているが、そうすると楽しみや喜びのない人生になるのではないか。」
というお話を自分は、このように思いました。

仏が説かれたのは、苦の滅だったではなかろうかと思います。
世俗の楽しみや喜びは、苦がともなうが、苦の滅は、苦がともなわない最上の楽しみ喜びだと説かれたと信じます。
世俗の楽しみや喜びに苦がともなうのは、自らに依るものではないからだと思います。
自らに依るということは、自らが為したこと為さなかったことをすべて知っているということだと思いました。
たか坊
2016年12月06日 19:09
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪