最高の 智慧ある教師に 尋ねます 一人の比丘が なくなりました<再343>
○ワン爺さんの独り言<343>
・・・
智慧のあるお方。
聞きたいことがあります。
私のおじいさんが亡くなりました。
彼はどこに行ったのでしょうか?
第2 小さな章 12.ヴァンギーサ経 1.
○中村元先生訳
343
「現世において、もろもろの疑惑を断たれた
無上の智慧ある師におたずね致します。
──世に知られ、名声あり、心が安らぎに帰した[ひとりの]修行者が、
アッガーラウァ[霊樹のもと]で亡くなりました。
○正田大観先生訳
346.(343)
〔尊者ヴァンギーサが尋ねた〕
「まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、諸々の疑惑を断ち切る方である、
〔まさに〕その、至上の知慧ある教師(ブッダ)に、〔わたしは〕尋ねます。
アッガーラヴァにおいて、比丘が、命を終えました。
〔世に〕知られた者であり、福徳ある者であり、自己が寂滅した者です。(1)
○パーリ語原文
343.
プッチャーマ サッターラ マノーマパンニャン
‘‘Pucchāma satthāram anomapaññaṃ,
私は質問する 教師に 智慧の少なくない
ディッテー ワ ダンメー ヨー ウィチキッチャーナン チェーッター
diṭṭhe va dhamme yo vicikicchānaṃ chettā :
現に世における 法において 方 諸々の疑惑の 切断者
アッガーラウェー カーラ マカースィ ビック
Aggāḷave kālam akāsi bhikkhu
アッガーラワにおいて 命を 終えた 比丘が
ニャートー ヤサッスィー アビニッブタットー
ñāto yasassī abhinibbutatto.
知られた 名声ある 自ら寂滅した方
○一口メモ
今回からヴァンギーサ尊者のブッダへの問いかけが始まります。
パーリ語の「智慧の少なくない」は、両先生の訳にありますように、無上の智慧、至上の智慧という意味です。そのような教師とはブッダを指します。ブッダは神々や人間の教師だからです。
「現に世における法において」は、今見ているこの世においてという意味で、「現世において」あるいは「現法において」などと訳されます。現世の諸々の疑問をすべて断ち切る方とはブッダを指します。ヴァンギーサ尊者はブッダを自分の疑問を解き明かしてくれる方だと思っているのです。
「アッガーラヴァ」とは、古代インドのアラーヴィ国にあった「アッガーラヴァ廟」という精舎の名前です。そこで、ヴァンギーサ尊者の和尚(師匠)が亡くなったのです。
「世に知られ、名声あり、心が安らぎに帰した[ひとりの]修行者」とは、その和尚はニグローダ樹の根もとで阿羅漢の境地を体得したので、ブッダにニグローダカッパ長老とブッダに名づけられたことで有名でした。
ここで、私(ワンギーサ)が疑問になることは、ヴァンギーサ尊者は阿羅漢になられた方は肉体の死を迎えた時、般涅槃に到ることを知らなかったのだろうかということです。考えられることは、知識と知っていても、実際にその通りなのかと言う疑問なのかなということです。
○前回のこの偈の解説
最高の 智慧ある教師に 尋ねます 一人の比丘が なくなりました<343>
http://76263383.at.webry.info/201401/article_26.html
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
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・・・
智慧のあるお方。
聞きたいことがあります。
私のおじいさんが亡くなりました。
彼はどこに行ったのでしょうか?
第2 小さな章 12.ヴァンギーサ経 1.
○中村元先生訳
343
「現世において、もろもろの疑惑を断たれた
無上の智慧ある師におたずね致します。
──世に知られ、名声あり、心が安らぎに帰した[ひとりの]修行者が、
アッガーラウァ[霊樹のもと]で亡くなりました。
○正田大観先生訳
346.(343)
〔尊者ヴァンギーサが尋ねた〕
「まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、諸々の疑惑を断ち切る方である、
〔まさに〕その、至上の知慧ある教師(ブッダ)に、〔わたしは〕尋ねます。
アッガーラヴァにおいて、比丘が、命を終えました。
〔世に〕知られた者であり、福徳ある者であり、自己が寂滅した者です。(1)
○パーリ語原文
343.
プッチャーマ サッターラ マノーマパンニャン
‘‘Pucchāma satthāram anomapaññaṃ,
私は質問する 教師に 智慧の少なくない
ディッテー ワ ダンメー ヨー ウィチキッチャーナン チェーッター
diṭṭhe va dhamme yo vicikicchānaṃ chettā :
現に世における 法において 方 諸々の疑惑の 切断者
アッガーラウェー カーラ マカースィ ビック
Aggāḷave kālam akāsi bhikkhu
アッガーラワにおいて 命を 終えた 比丘が
ニャートー ヤサッスィー アビニッブタットー
ñāto yasassī abhinibbutatto.
知られた 名声ある 自ら寂滅した方
○一口メモ
今回からヴァンギーサ尊者のブッダへの問いかけが始まります。
パーリ語の「智慧の少なくない」は、両先生の訳にありますように、無上の智慧、至上の智慧という意味です。そのような教師とはブッダを指します。ブッダは神々や人間の教師だからです。
「現に世における法において」は、今見ているこの世においてという意味で、「現世において」あるいは「現法において」などと訳されます。現世の諸々の疑問をすべて断ち切る方とはブッダを指します。ヴァンギーサ尊者はブッダを自分の疑問を解き明かしてくれる方だと思っているのです。
「アッガーラヴァ」とは、古代インドのアラーヴィ国にあった「アッガーラヴァ廟」という精舎の名前です。そこで、ヴァンギーサ尊者の和尚(師匠)が亡くなったのです。
「世に知られ、名声あり、心が安らぎに帰した[ひとりの]修行者」とは、その和尚はニグローダ樹の根もとで阿羅漢の境地を体得したので、ブッダにニグローダカッパ長老とブッダに名づけられたことで有名でした。
ここで、私(ワンギーサ)が疑問になることは、ヴァンギーサ尊者は阿羅漢になられた方は肉体の死を迎えた時、般涅槃に到ることを知らなかったのだろうかということです。考えられることは、知識と知っていても、実際にその通りなのかと言う疑問なのかなということです。
○前回のこの偈の解説
最高の 智慧ある教師に 尋ねます 一人の比丘が なくなりました<343>
http://76263383.at.webry.info/201401/article_26.html
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように
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この記事へのコメント
ブッダに質問するワンギーサ尊者から、すぐに想起する、増支部経典(第八集)があります。それは、「こういう場合には、私は説法しません」とブッダが仰っている経典です。「來詣せずば」・「承事せずば」・「請問せずば」・「傾聴せずば」・「法を受持せずば」・「法の義を観察せすば」・「義を知り法を知りて法随法行たるに非ずば」、「如来説法せんとは思わず」。師に果敢に質問する勇気が必要ですね。ご指導ありがとうございました。
阿羅漢になると、次に何処に生まれたという事がないこと、大変な違いを感じます。そうしますと俗世間では「次に何処に転生するか」が普通の話題になる様に思います→でも実際はそのような話はタブーで、怪しい話としてまともには扱われない印象も感じます。無知といえるでしょうか。
「次に生まれ変わる事はない」まで成長する大切さ、実感してそして精進に繋げて参りたいです。
ワンギーサ長老・皆様の、今日も素晴らしい一日となりますように。
我々人間にとって最も信用できないものは自分の心身でしょう。しかし阿羅漢にとっては自ら望む望まないという俗的な思考の足場自体がなくなっているのかもしれませんね。死ぬ時も心が揺れようがないと。つまり通常の人間は揺れているだけなんですね。我々が死自体を体験することはないが、心の揺れ(どこに生まれ変わるかという思考)に飲み込まれるか否かは普段の習慣にかかっているのでしょう。いやほとんどの場合飲み込まれることを前提にせざるを得ないと思います。悪いことをしていれば自分にとって気分の悪いムンクの叫びのような状態に没入して人生を終えることは言うまでもないですね。
正直不意に苦しんで死ぬ時には念仏が有効かなとも思います。ある種の思考停止だけど場合によっては最も倫理的な選択ということになるんですね。元々ゴミみたいなひどい世界で「落ち着き」というものがいかに宝物であるかということですね。
阿羅漢が善行為のみを行うという事実はありがたい話です。命がとことん真理を理解し無駄を省いていくと善を選択することを証明してくれるのですから。自分の僅かに残ったカルマに対しても理想の処置を維持しながら死ぬのですね。
幸せでありますように。
https://noritsu.seesaa.net/article/201612article_6.html