如来は誰もが覚り得ると説くが...

ワン爺の独り言(2017年10月31日)
「漫然としていてはとても解脱することはできない。覚りに至る実践をしてこそ次第次第に覚りに近づきついに解脱するのである。」とSRKWブッダは述べておられます・
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou260.htm



(以下引用)

【如来は誰もが覚り得ると説くが...】



如来は誰もが覚り得ると説く。しかし、如来は誰もが覚るとは説かない。

如来がこのような微妙な言い方をするのには理由がある。それは善知識の出現の事実にもとづくことである。すなわち善知識がこの人からはとても発せられないだろうと思えるような人の口からも意外に発せられることがあるのを知って、如来は誰もが覚り得ると説くのである。



もちろん、如来は善知識が誰の口からでも発せられるわけではないことを知っている。善知識はあくまでも因縁によって人の口を借りて世に出現するものであるからである。つまり、すべては因縁によっていて如来といえどもその出自出現を予見することはできないのである。

ところで、覚ろうとする人は如来でさえも予見できないものを自分の力だけで見いださなければならない。しかも善知識の出現は世に稀有である。それゆえに人々(衆生)が覚ることは容易ではないと言う。しかしながら、心構え正しき人はそれをまるで容易に為し遂げる。たとえば知恵の輪に取り組む人の中のある人が、あっという間にそれを解いてしまうようなものである。

知恵の輪を手に取ることなく眺めているだけではとても解くことはできない。手にとって真摯に取り組んでこそ知恵の輪を解くことができる。覚りに至るこの一なる道もそうである。漫然としていてはとても解脱することはできない。覚りに至る実践をしてこそ次第次第に覚りに近づきついに解脱するのである。

知恵の輪は、それが解けるということが分かっていれば充分である。覚りは、誰もが覚り得るということが分かっていれば充分なのである。こころある人は正しい信仰によって自ら解脱せよ。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
誰もが覚る可能性がありますが、誰もが覚る訳ではありません。まず、覚ろうと思わない人は覚らないでしょう。また、覚りたいと思っている人でも、覚りについて勘違いしている人は覚らないでしょう。大切なことは心構えが正しくない人は覚らないということです。

例えば、考えられないことですが、私利私欲のために、名誉のために覚りたいと思っている人は覚れないでしょう。また、何かに頼って、依存して覚ろうと思っている人も覚れないでしょう。覚りの方法にこだわる人も何かに依存する人です。

この記事へのコメント

toshi
2017年10月31日 10:24
 「チャンスは誰にでもあるが、そのチャンスをモノに出来る者は少ない」と言う事だと思います。「覚り」に至る基本的な心構えと、積み重ねるべき基本的な道筋・・・それが間違っていると、いつまでも目的に到達することは適わない。本当に、「自分の考えは正しいのか?」と、・・・常に、自省する心を持たないと、肝心要の基本路線から逸れてしまう気がする・・・。
SRKWブッダ
2017年10月31日 12:48
→ これは正しいとかこれは正しく無いとか考えている間は、正しい道を歩むことは難しい。ゆえに、釈尊曰く。

サンユッタ・ニカーヤⅠ:傍らに立って、かの神は、尊師のもとで、この詩句をとなえた。「真理を知りぬいていないので、異教に誘い込まれる人々は、眠っていて、めざめていない。今こそかれらを覚醒させる時である。」 〔尊師いわく、──〕「真理を知りぬいていて、異教に誘い込まれることのない人々こそ、正しくさとり、正しく知り、平らかでない難路を平らかに歩む。」

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