しあわせになるには

ワン爺の独り言(2017年11月7日)
「人々(衆生)は足りないものがあるからしあわせになれないのだと考えているようである。」とSRKWブッダは指摘しています。しあわせになるためにはこの考え方を改める必要があるようです。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou267.htm



(以下引用)

【しあわせになるには】



人々(衆生)は足りないものがあるからしあわせになれないのだと考えているようである。しかしながら、実際には人々はいろいろなものをかかえているゆえに苦しんでいる。



この世のもので、人々が執著するものによっては人はしあわせになることができない。それらへの執著を捨て去ってこそ人はしあわせになることができる。つねとは言わないが、この世にしあわせな人は確かに存在している。かれは過去のことを後悔して思い煩うことが無く、現在について一切の悲苦憂悩を滅し、未来についても不吉なことが無い。

浅はかな者は、それが手に入ればしあわせになれるだろうと思い欲望を起こすが、もしそれが思い通りに手に入ったところでかえってしあわせは遠のいてしまう。仮にその二倍のものが手に入り、さらに三倍のものを手中におさめたとしても、それらはかれを苦しめるだけである。愚かな者は、しあわせを得ようとしてもがくが、それによってかえってしあわせのよすがをこわしてしまう。一時的にしあわせを掴んだと思っても、結局はかれを破滅させてしまう。



しあわせを望むことが問題なのではない。しあわせを得るための正しい方法を知らないことが問題である。しあわせを欲することが問題なのではない。しあわせを得るために手段を選ばないことが問題である。

人は誰しもしあわせを望みそれを得ようと欲するものである。正しく望むこころある人はしあわせに達するであろう。正しく求める聖求の人はしあわせを得るであろう。真如がそれを後押しし、明知が道の歩みを誤らせないからである。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
この理法の流れは微妙な気がします。
「人々(衆生)は足りないものがあるからしあわせになれないのだと考えているようである。しかしながら、実際には人々はいろいろなものをかかえているゆえに苦しんでいる。」と言われると、いろいろかかえているものを捨てれば、しあわせになると教えているような気がします。

しかし、どうもそうではないようです。終わりの方で「しあわせを望むことが問題なのではない。しあわせを得るための正しい方法を知らないことが問題である。しあわせを欲することが問題なのではない。しあわせを得るために手段を選ばないことが問題である。」そして「正しく望むこころある人はしあわせに達するであろう。正しく求める聖求の人はしあわせを得るであろう。」と述べられます。つまり、正しく望むこと(熱望)、正しく求めること(聖求)が必要なのだと思います。

では、熱望とはどんなものでしょうか。聖求とはどんなものでしょうか。
熱望については、http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou025.htm
聖求については、http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana062.htm
上記のアドレスの文章をお読みください。

この記事へのコメント

toshi
2017年11月07日 10:57
 「しあわせと苦しみ」は、背中合わせに存在しています。・・・数年前、自分なりに修行していた時、ふと「人間の、苦しみのもと(原因)は何だろう?」という疑問が生まれました。・・・暫くして、「そうだ、人間はこの肉体(身体)があるが故に苦しむのだ!」と自分なりに結論付けました。死んでしまえば(肉体を失えば)苦しみは除かれるが、輪廻というものがある以上、「決定的な解決にはならない」という事も分かりました。・・・結局、真の「しあわせ」を得るには、この「肉体(身体)」を形成している名称(nama)と形態(rupa)から解脱しない限り無理であり、明確な解脱のための方法が必要である・・・と。それを解決する「明確な教え」に出合ったのは「つい最近」の事です。