理法に適った行為

ワン爺の独り言(2017年12月12日)
「愚者は、たとえば行為によって覚りに近づくことができると考えている。しかしながら、いかなる行為によっても、それ自体が覚りに近づく手段とはならない。」とSRKWブッダは述べておられます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou303.htm


(以下引用)


【理法に適った行為】

愚者は、たとえば行為によって覚りに近づくことができると考えている。しかしながら、いかなる行為によっても、それ自体が覚りに近づく手段とはならない。もちろん、行為を縁として覚りに近づく。ただし、これらのことは、まったく違うことなのである。

その行為が、静けさを増すのに役だったとき、そのときに限り、行為は道に(理法に)適ったものとなる。そうでないならば、何もしない方がむしろ静かである。静けさを目指して邁進する人だけが、安らぎ(=ニルヴァーナ)に近づく。

(以上引用)


*ワン爺のコメント

私はこの理法を読んで、次のダンマパダの偈を思い出しました。

悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。
単に何かするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。(314偈、中村元訳)

この偈の深い意味は、今回のSRKWブッダの理法を読むまではわかりませんでした。
この偈の「善いこと」の意味は、理法に適った行為で、静けさを増すのに役立つものなのです。


この記事へのコメント

toshi
2017年12月12日 08:06
 衆生が「道に適った行為」を為し続けるのは相当に難しい事と思います。・・・自分が良かれと思って行っている行為が「全く的外れ」であり、あるいは「不徳を積む行為」であると言う事は何時でも起こりえる事だからです。・・・故に、「悪いことをするよりは、何もしないほうがよい」という教えが説かれているのだと考えます。・・・行為の判断基準は、「静けさを増すのに役だつのか?」と言う重要な一点にある事を理法は教えてくれているのですね。