聖求を持つ機縁

ワン爺の独り言(2017年12月16日)
「聖求(正しく求めるこころ)はあっても信仰に欠けていてはとても覚ることはできない。他ならぬ自分自身を信じること。それが信仰である。しかしそれは口で言うほど簡単なことではない。人々(衆生)は、自分を信じることができないでいるからである。」とSRKWブッダは言われます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou307.htm



(以下引用)


【聖求を持つ機縁】

聖求を持つことは、言うほど容易ではない。自分が覚って仏になれるなどとは、にわかには信じがたいからである。しかしながら、実際には、誰もが仏になり得る。解脱とは、余計なものが脱落することに他ならないからである。

ところで、出典は散逸したが、昔読んだ本に次のようなくだりがあった。

 慧能問う 『私は仏でしょうか?』

 弘忍答える『そなたは間違いなく仏じゃ』

これを読んだとき、覚りは本当に誰の身にも起こることであるのだろうと思った。そのようなことから聖求を確立することも、出来得るということである。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
「聖求を持つ機縁」の前に、「聖求とは何か?」を理解しておく必要があります。そこで、聖求に関するSRKWブッダの言葉をTwilogで検索しました。その中に次のような面白い逸話がありましたので引用します。

(以下引用)
自分の本当の望みは、実は”聖求”にもとづいて承知されるものである。 では、聖求とは何なのか? ...


江戸時代を舞台にした逸話がある。 あるところに、素質は充分だが勉強を怠り、遊びほうけている青年がいた。 彼はすでに妻を娶っていたが、その日暮らしなのである。 ...  見かねた長者は、考える。 どうしたら、彼を立派な男にできるだろう。 ...

長者は考えた末、ある宝物を青年に贈ることにした。 『君は宝物に興味があるかい?』 長者は青年に問う。 『ええ で、その宝物とは...?』 長者は、見事な刀の鍔を青年に見せる。 青年は言う。 『これは見事』 それは時の将軍の腰に差してある刀の鍔とお揃いのものだった。 

『欲しいのなら君にあげるよ』 長者は鍔を青年に贈る。 青年は、飛び上がって喜び、早速家に帰って、妻にそのことを報告する。 彼はその鍔を箪笥の奥にしまい、毎日眺めては楽しんでいたが、どうしてもその鍔を刀に嵌めて腰に差してみたくなった。 彼は自分の刀の鍔と交換した。

道行く人々が、彼の刀の鍔を感心して見る。 『すごいものだねェ』 『そうでしょう 将軍様とお揃いですよ』 彼は得意である。 ... しばらくして、彼は思う。 鍔は立派だが、刀はなまくらだ。 彼は妻を説得して高価な名刀を手に入れた。 名刀に鍔をはめ込み腰に差す。 これでどうだ...

しばらくはそれでよかったが、彼はまた物思いに耽る。 ”刀は立派だが身なりはみすぼらしいね...” 道行く人々がそう言っている気がして、彼は心穏やかでない。 ... 彼は、さらに妻に頼み込んで着物を新調する。 これでどうだ。 ...

しかし、しばらくすると彼はまたふさぎ込んでいる。 数日間、彼は考えた末、妻と一緒に国元に帰る決心をかためた。 長者は、聞く。 『おや お引っ越しですか?』 青年は答える。 『ええ 国元に帰るんです』 長者は問う。 『何のために?』 青年は、胸を張って答える....
『身なりは立派だが、頭の方はからっきしだと言われたくないので、国元の学問所で本気で勉強するつもりです!』 決心は固いようだ。 彼らを見送りながら、長者は密かにほくそ笑む。 『どうやら鍔を贈ったかいがあったようじゃ』  * * *

後日談... それから数十年。 青年は、すでに藩の重鎮として藩政を任されるまでになっていた。 ある日、彼よりも年上ではあるが部下の家老が訪ねてきて言う。 『あなたはまことに才豊かで、運にも恵まれたお方ですなぁ』 国元に帰郷した当時、藩主は改革の最中。 人材が求められていた。

青年は、学問所を首席で卒業。 藩主の信頼も厚く、ここまで順調に出世も果たし、それに見合った実績も上げてきたからである。 家老が帰ったあと、彼はこれまでのことをふと振り返って思う。 思えばすべてはこの鍔から始まったことだ。 今もあの鍔は、彼の腰にあった。

彼は、突然すべてを理解する。 そして、つぶやいた。 『今の私があるのは、才能豊かだったからではない 運に恵まれたからでもない 私は、(私のことを思ってくれる)人に恵まれていたのだ...』 彼は、数日間もの思いに耽っていたが、ある決心を固めた。 それは、...

(以上引用)

この逸話から聖求とはどんなものか?考えてください。

もう一つ、SRKWブッダの言葉を引用します。「種は、一生分の栄養を予め持って、成長するのではない。種は、必要に応じて栄養を得て、巨木ともなるのである。聖求ある人は、適宜に道の糧を得て、無上の安らぎ(=ニルヴァーナ)に到達する。心配しなくても、道の糧は適宜に与えられるのである。そうでなければ、如来は理法を説いたりしない。」


この記事へのコメント

toshi
2017年12月16日 08:56
信仰とは、「他ならぬ自分自身を信じること。」とあるが何よりこれが一番難しいと思う。・・・人間の心は、「ころころと動き定まらない」ものであるし、人は周囲の環境に大いに影響を受ける生き物だから・・・。簡単に言えば、「周りに自分を委ねていた方が楽である。」と考えてしまう傾向が何より強い。・・・それゆえに「こころある人は世間において知られるいかなる宗教にも、宗派にも、その他真理と称する何ものにも、さらに如来の言葉にさえもこだわってはならない。」(『覚りの境地』41頁)とあるように、先ずしっかりとした自己を確立しない限り「聖求」など成立し得ないと考える。

ノブ
2017年12月16日 12:49
むしろこう考えるべきでは無いでしょうか。先ずしっかりした自己を確立したい、と言うこの思いこそが自分自身に依拠したものであると。これは初発心であり、聖求に関わることではないでしょうか。