修行者の楽しみと栄え

ワン爺の独り言(2018年1月6日)
「苦行によって覚ろうとする者も、心から楽しんで修行する者も、覚りには達しない。覚りの道は、これらの両極端を離れた中道であるからである。立派な修行者は、楽しみと栄えとともに道を歩み、ついにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に到達する。この楽しみは、衆生の楽しみとは違うものである。」これはSRKWブッダの「修行者の楽しみと栄え」に関するツイッターからの言葉です。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou329.htm



(以下引用)

【修行者の楽しみと栄え】

修行していなくて、楽しみが多いのは危険である。その楽しみには耽溺しやすく、実際に耽溺するならば道を踏み外してしまうだろう。 その一方で、修行していて楽しみが多いことは、この場合には修行が進んでいる一つのバロメーターともなる。立派な修行者は、その楽しみに耽溺することは決 して無いからである。そこにおいて栄えを生じ、修行者はさらにニルヴァーナへと近づくことになる。

ところで、覚りの道の途中には果報と言うべきいかなる実りも存在していない。したがって、修行者が修行中に感じる楽しみはこれとは関係のない通常の、世間 的なことがらについての楽しみである。ところが、一見して覚りの道とは無関係のその世間的なことがらがについて楽しいことが、意外にも修行が進んでいる証 左となるのである。なお、この機微については、預流に達した人──具体的には「苦い薬の(準)公案」を通過した人──は理解しているであろう。この機微を 把捉し、体得しているならば、楽しみが多いことは何の問題もないどころかむしろそうであるべきことになる。この意味において、立派な修行者は大いに楽し み、さらに栄えを生じよ。

ここで、この栄えとは、万民が認めるところの、全人類がそこに達するであろうと考え得るあり得べき「それ」の行使の帰趨であり、それによって人々が楽し み、苦しむことがなく、誰も悲しませず、それを為すことについて誰一人異議を唱える恐れが無く、それを為したことによって不吉なことを生じず、本来は当た り前のようにあるべきものであり、しかしながら得難いものを指す。したがって、徒党を組んでいても敵があるならば栄えているとは言わない。全人類がそれを 享受して楽しんでいても、そのそれによって不吉なことを生じるならばそれは栄えとは言わない。未熟な者はこの真の栄えの実在を訝しがるかも知れないが、そ のような者でも自らの成長とともにこの栄えの意味と実在とを理解するであろう。心が邪な者でもこの栄えを損じることはできず、悪人でさえこの栄えを栄えて いると認めるのである。また、神々はこの栄えを大いに羨む。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
SRKWブッダは「修行者の楽しみと栄え」について多くの言葉を述べておられますが、その中からほんの一部を引用します。

(以下引用)
世間のことでも、解決するときには、一瞬に解決するものである。ただし、痛みを伴うこともあるだろう。その一方で、覚りの道においては、危険も、痛みも存在しない。覚りの修行は、楽しみと栄えとともに行われるものだからである。修行者は、安心して修行に励んでよいのである。

覚りの道は、楽しみと栄えとともに歩む道である。したがって、修行者が楽しみと栄えを望みつつ修行しようとすることは不当なことではなく、正当なことである。むしろ、問題になるのは危険を好む者が多いということである。危険を好み、理法を嫌う者は破滅する。

覚りの道に王道は存在しないと言う。いや、むしろ、覚りの道は王道そのものである。何となれば、覚りの道は楽しみと栄えとともに歩む道だからである。この道には危険さえ無いので、王道以上の道である。自らこの道を歩む人が、自らニルヴァーナに到達する。

功徳を積んだ。しかしながら、その実感が湧かない。これは修行の一つの困難である。ただし、立派な修行者は楽しみと栄えとともに功徳を積む。逆はないので、乏しき中から与える人こそ大きな功徳を積むと説かれる。

功徳を積む人は、楽しみと栄えを得る。ここで、それらに耽溺しないことが一つの分岐点となる。ピンとこない人は、「苦い薬の(準)公案」を思い出すがよい。それで、修行者はゆっくりと邁進せよと説かれる。

功徳を積む人は、楽しみと栄えを得る。そこでは、その楽しみと栄を大いに楽しむがよい。それが耽溺しないということである。世人にとって、ピッタリと楽しむことは容易ではない。修行を進めた人が、それをピッタリと楽しむ。
(以上引用)



この記事へのコメント

toshi
2018年01月06日 07:35
 基本的に、修行は「楽しみながら行わなければいけない」と言う事ですね。・・・仏教は古来から「苦行」と「快楽」の両極端を否定して来ましたが、本日の理法では「通常の世間的なことがらの楽しみ」は、一見して覚りの道とは無関係と思える世間的な楽しみであるが、「意外にも修行進んでいる証左となる」・・・と言うのですから、まさに福音と言えます。・・・更に、立派な修行者は楽しみながら「大いに栄えよ」とまで言っておりますから「栄え」を追求すべきであると思います。