執著の結び

ワン爺の独り言(2018年1月7日)
他人の覚りが気になる人は、「他の人の覚りは自分とは何ら関係ない筈であるのに、自分の方からそのことについての執著の結びを作って しまう。」とSRKWブッダは述べています。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou330.htm



(以下引用)

【執著の結び】

「誰にでも──どんなに愚かに見える人であっても──覚りのチャンスがある。」これは、本当のことである。

ところが、それなりに修行を積んだと思い込んでいる者ほど、このことを字面通りに信じることが難しくなる。彼の我執(我ありという思い)が、この事実を素直に受け止めることを妨げるからである。そうして、他の人の覚りは自分とは何ら関係ない筈であるのに、自分の方からそのことについての執著の結びを作ってしまう。

そこで、恕(じょ)すことが勧められる。あるいは、国を捨てた王のように道を歩むことが称賛される。つつしみこそ最上の行いであると説かれる。

修行者は、先ず自分自身に小さく打ち克ち、ついに完全に打ち克て。そこにおいて、解脱が起こると説かれる。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
SRKWブッダのホームページ「覚りの境地」の「素質」の欄の初めには次のように書かれています。
「人は、それをこころから望むならば、誰でも覚りの境地(=ニルヴァーナ)に至り得る。したがって、覚りの素質などというものは何ら存在していない。」
これを信じられない人は、自分自身も信じられないということになり、覚ることはできないことになると思います。

さらに、今回の理法に書かれていつように「それなりに修行を積んだと思い込んでいる者ほど」、他の人の覚りが気になって、覚りへの執着を作ってしまうのでしょう。

その対策として、恕(じょ)すことが勧められています。理法「恕(じょ)すこと」および「恕(じょ)すことと許すこととは違う」を参照して下さい。それらのアドレスは次の通りです。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou113.htm
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou113_sub.htm

「国を捨てた王のように道を歩むことが称賛される。」についてはダンマパダ329偈に次の述べられていますから、それを参考にして下さい。
「もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。」(中村元訳)

「つつしみこそ最上の行いであると説かれる。」についてはダンマパダ361偈に次のようにな述べられています。
「身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。」(中村元訳)

この記事へのコメント

toshi
2018年01月07日 07:39
 自分にうち克(勝)つのは本当に難しい事だと思います。・・・経典にも、「戦場において百万人の敵に勝つとも、唯だ一つの自己に克つものこそ、実に不敗の勝利者である。」(『感興のことば』第23章)と説かれています。・・・「それなりに修行を積んだと思い込む」ことなく、素直なこころでつつしみながら修行に精進したいものです。
ノブ
2018年01月07日 17:20
覚らない限りは、解脱知見を生じない限りは、ただの一歩たりとも覚りの道を歩んではいないのだと言うことを修行者は認めなければならないと、説かれていたのを思い出しました。知恵の輪が途中まで解けたと言うことが無いように。しかしそうであるからこそ、常に新鮮な気持ちで事に当たれるような気がします。